【書感SS】夏待ち(ハンザ『同盟』の歴史)

 

人の背丈以上にある大きなガラス窓が初夏の日差しを取り込む。昨晩の雨の名残でもあるしっとりとした少し強めの風が、部屋の入口から入り込んでは彼の座る番台の帳簿をパラパラとめくった。

首を回さずとも見渡せそうな小さな部屋だ。ただ窓際でないと、少々薄暗い。部屋の角々に沈む闇は、時に彼を安心させる。世の時流は人が泳いで逆らうには速すぎ、ガレー船で逆らうには人の力に依る橈漕の非力さを感じずにはいられない。

彼がじっと眺めるその闇の中には、彼を取り巻く時流の中に安住すべき場所を示すかのような誘いがあった。遍歴か定住か。幾多の都市を渡り歩いてきた彼にとってみればこのストックホルムにある小さな商館は、じっと棲まう闇のように安定した場所そのものだった。

彼が拠点としている商館には毎日毎日商人たちが慌ただしく出入りをしていた。複数ある商館の中でもこの商館は最も河口寄りある。港湾施設の眼と鼻の先、扉を開ければそこには停泊する商船が何隻も連なって見える。

建物の規模は大きくはないもの、勘定事の集約が行われる場所で商人たちは引っ切り無しに帳簿と船の積荷の照会を行なっていた。

商人が取り扱う鉄、銅の鉱石は重要輸出品の筆頭で、地下資源の豊かなこの地ではそれを商品にせずに何を商品とすればよいのかと言われるほど重要であった。彼の所属する一団が近いうちに鉱山開発支援にも乗り出す予定であることは言うまでもない。この港から出航する船には他にも皮、毛皮、バターが積み込まれる。

ではこの港に入港する商船はどんな商品を積み込んでいるのだろうか。やはり皮や毛皮の輸出に対して重要視されるのは毛織物であり、加工品をこの地に流通させることを目的としていた。彼はこうして商館で執務をこなしているが、本国に戻れば毛織工房を2、3つ持つ投資家でもあった。そうすると彼の頭の中では工房で行われる手工業と輸出入の品目ががっちりと手を組むことになり、彼にしてみれば貿易というものは単なる船の往来以上の意味を持つようになる。

「考え事ですか?」

入り口から物腰柔らかな声。彼はふと目をやると、うら若き女性が立っていた。彼の補佐をしている有能な女性だ。

彼女の仕事着とも言うべきタブリエは所々汚れがあるが、それは凛とした顔立ちの彼女にしてみれば何がついても勲章のようなものである。彼女は丁度、荷揚げされた塩樽の検品をしてきたところなのだろう。

「ああ、そうだね。少し考え事をしていたよ」

彼はそう言うペンをペン立てに挿した。

「鰊はどうだい?」

「ええ、先ほど水揚げされました」

「そうか。今日も相変わらずなようだな」 

商品として鉱石や毛皮を扱うものの、この地にいる以上は商品として別格に扱わなければならないのは海産物加工品であった。特に鰊の漁獲量が豊富であり、鰊の塩漬けはそれこそ一艘どかりと積み込んで出港させることも多々あった。

水揚げされた鰊はそのまま併設させる小屋で塩漬け作業が行われる。辺り一帯を包む潮の香りと、積み上がる鰊の山、漁期である夏の日差しを浴びてキラキラと輝いている。

彼はこの鰊の塩漬けの輸出急増にいち早く対応し、早期から塩を輸入していた。それも大量にだ。塩漬けや干物はもはや食生活には欠かせない。樽詰された鰊は海を越え、リューベック港に揚がる。塩辛さがクセになるとはよく言う。燻した魚も好きだが、塩漬けの味の濃さもパンの付け合せには良い。

「さて」

彼はそう言うと、帳簿を端に避け立ち上がる。食べ物のことを考えたからか、口の中に唾液が残る。残念なことに、食事の時間はまだ先だ。

「今日も精を出しますかね」

「はい」

答える彼女の後を追うように、彼は部屋を出た。

初夏の日差し差し込む部屋。彼らの尽力によって興隆する都市の産声は、ストックホルムだけでなく各地で上がるその声は、商人の世界そのものを飲み込もうとしていた。

 

 

参考資料

金と香辛料―中世における実業家の誕生

金と香辛料―中世における実業家の誕生

 

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