【書感SS】ヨーロッパ中世社会史事典(書物 Livre)

 

待たせてしまってすまない。前の話が立て込んでしまってね。

早速話を始めよう。こんな小さな部屋で立ち話というのも申し訳ないがね、あいにくここにはゆっくり話をする場所というものがないんだ。 

話と言っても大した話ではない。大した話ではないのだが、人によっては大した話にもなり得ることだ。このことについて私は何も隠す気はない。そう、本の話だ。折に触れては”本のこと”について話をしてきた。そして今日もこうやって”本のこと”について話をする。同じ話を繰り返していることについては気にしないでくれ、私の悪い癖だ。

私の手元には今、執拗なまでに飾り立てた写本がある。見てくれこの表紙の金飾りを。高価な食器とどんな違いがあるだろうか。修道士たちが膨大な時間をかけて書き写し、飾り立て、それ自体に価値が有るようにこしらえる。

果たしてこれは何のためにあるのだろうか。それを常に考えていた。私はこれが読まれるためにあるものとは到底思わない。おっと、手に取るなら丁寧に頼む。なんて言ったって”お高い”からな。こうして机の上に置くのも”ためらってしまう”程だ。

この本は何よりも金があり、その金があるなかでも教養趣味のある貴族の書架に置かれるために存在する。ほとんどがそうだ。

では本というものの別の目的を考えてみよう。この写本が貴族の欲求を満たすこと以外に使われるとしたらどこだ? そう、教育だ。ただ教育をするにしても、どうだ? 教師は床に座る生徒に向かってただ一冊の本を読み上げていくだけだろう。生徒ひとりひとりのための本などなかったじゃないか。

生徒たちは必死になって講義録を作成する。そこで作成された講義録はどうだ? もはや教育の要となっている。パドヴァ大学のかつての規約を知っているかい? 私はそれを知って感心したものさ。「原本なくして大学なし」とあるのだからね。

お高い本一冊と教師ひとりのために、こうして生徒たちが工夫を凝らしていく中で、我々本を生み出す人間というのはなにをしているのだろうか。今もなお一文字一文字誤りがないように正確に書き写すことを生業としているじゃないか。

なぜ我々は必要に対して、待てと言うことが出来るのだろうか。世の中は我々を求めているというのに。本というのはより増加し、より小さくなり、より色々な人に読まれ、様々な場所に持ち運ばれるようになるだろう。それこそこんな装飾品をつけて貴族の書架でおとなしく眠り続けていること以上の意味を持つようになるのだよ。

もはや本は我々のための道具なんだ、貴族のための高価な食器ではなくなる。あの金銀細工師が完成させたという印刷機も、もう手の届くところまで来ているじゃないか。実際この街には工房が3つある。それらにはすでに印刷機が導入済みだ。紙の流通だって近頃は安定してきた。この街の知識層の実力を底上げする準備は整っているのだよ。

どうだい。ひとつ印刷機をキミの学寮に置いてみてはどうだろうか。本というものはもはや知的な行為の中心となる。抗いようがないんだよ。彼らがその中心にいないで、誰がいるというのだい。もちろん私は彼らの誠実な貪欲さには期待している。それはキミかて例外じゃないだろう。

この件についてひとつ考えてはくれないかい? なに、問題はない。これが決まれば、私はキミがちょっと目を瞑っている間にそれを用意してみるさ。そして何くわぬ顔で「刷り上がりはどうだい?」と言うだろうね。

 

 

ヨーロッパ中世社会史実事典「書物」項より 

ヨーロッパ中世社会史事典

ヨーロッパ中世社会史事典

  • 作者: アニェスジェラール,ジャックル=ゴフ,Agn`es Gerhards,池田健二
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