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初音ミクの死と幸福な錯覚

 

これが人間の問題でないのだとしたら、では一体誰の問題なんだろうか。

ボーカロイドオペラ「THE END」を鑑賞したのが先週の金曜日で、そこから私が<初音ミク>(あえて<>で括る。<初音ミク>と初音ミクのふたりはよく観ると細部が異なる)について考えることを始める、つまりそれがニコニコ動画で元気いっぱいに歌って踊る私の”楽しみ”としての初音ミクではどうやら発生し得ない行動である”考える”ということを行うようになってしまったのだ。考えるとは、思考する、あるいは実験的に脳みそのギアを変えてみるとも言える。

とにかく私は「THE END」鑑賞後、ひたすら初音ミクの歌を聴き、<初音ミク>のことを考えるようになってしまったのだ。なってしまったというとさもそれが悪いことのように捉えることが出来てしまうが、当の私からしたらこの<初音ミク>を考えるという行為は至極自然なことで、さらに言えば来たるべくして来たことのようにも思える。明確な始まりも終わりも存在しない探求と思考ほど、歓喜しまた恐怖することはない。

では、<初音ミク>の何を考えたのだろうか。キャラクターだろうか、それとも初音ミクがCGM(Customer Generated Media,消費者生成メディア)としてどのような発展をしていくのか、ボカロPとどのよな関係を紡いでいくのかということだろうか……いや、そのどれも経由してはいるが、結局のところ私の思考はあるひとつの終着(THE ENDミクに言わせれば「終わり」)である「初音ミクの死」についてである。

 

なぜ「初音ミクの死」について考え始めたのだろうか。まずこれは「THE END」で行われた表現に端を発する。

THE ENDの冒頭、横たわるミクの足から頭に向かって視点が舐めるように移動してく。そして小さな鼻孔に入り込むと、<ミク>の体内らしき空間が映し出される。これは以降でも度々登場し、そして最後にミクは血涙する。聖母マリア像と血涙の関係のように象徴と肉体の相容れない関係のようでもあるが、「THE END」中でも象徴としてのミクがさもあまりに人間的な肉体を持っているかのような表現が行われる。

「THE END」で語られること、ミクがひたすら自己言及することが「死」なのであるから、ここに登場するミクという存在が口にする「死」が何に対する死なのかというある程度のレールを敷く必要がある(そのレールの上を必ずしも走らなくていいわけだが)。まるで人間のような肉体を持っているように思える(人間としてのミクが確定したわけではない)今までの象徴としてのミクが、あろうことか死について語る。

これが「THE END」のひとつの構造と言える。つまり「初音ミクが人間的に死ぬ」こと、初音ミクという人格を入れている器たるその肉体、初音ミクという象徴を構成しているキュートなボディを持ったミクが死という”初音ミクにとっては捉えようのないもの”に向かって爆走するのである(冗談ではなく、あれはホントに爆走だった)。

 

そうした表現が行われた「THE END」を鑑賞した後、我が家に帰って自室の灯りをつけると机の上には愛嬌を振りまく「ねんどろいど 初音ミク」がいるのである。ここで私は混乱する。もし、初音ミクが仮に人間のような肉体を持っていたとしたら、目の前で愛嬌を振りまいている初音ミクと同一性を保てるのだろうかと。目の前で愛嬌を振りまいている可愛らしい初音ミクが死ぬというのは想像できないけれど、今、私の頭のなかにいる<初音ミク>に触れると、彼女の肌は温もりを持ち、さらには人間のように呼吸をし、体中に血が巡り、脈打っているのである。困った。初音ミクは死なないはずであるが、私の頭のなかにいる<初音ミク>は死ぬ可能性がある。

これが私が「初音ミクの死」について考え始めた顛末である。私の頭のなかで<初音ミク>は声だけでなく、肉体を手に入れてしまったのである。しかもその肉体を持つ<初音ミク>は実在しない。これは厄介だ。実在しないのに肉体を持ち、そして、死んでしまうかもしれないのだ。

そこにつけ込むように想像と妄想を超えたリアリティが迫ってくる。実在しないはずの<初音ミク>が自身の死を人間の死(それは肉体としてでも精神としてもでも)と同じように歌うとき、それを聞く人間はどのように彼女を見ればいいのだろうかという問題なのである。

ここで展開される死というものは、まず初音ミクというソフトウェアの死という問題とは別のところで発生する。初音ミクというソフトウェアの死というのは、例えば「Microsoft Officeの死」などというようなときに使われる死という言葉と意味を同じくする。この例で言えばMicrosoft Officeよりも強烈に使いやすいソフトウェアが登場し、シェアが逆転し、ユーザーは激減し、居る場所もなくなったMicrosoft Officeが販売・開発を中止した、という様なときに使われる死という言葉である。これはCGMとして発展し、皆に愛され、皆によって人格を得た初音ミクという存在(人格)の死とはまた別の話でもある(しかし繋がっているには繋がっている。なにせ初音ミクというソフトウェアを使用するユーザーが誰一人としていなくなったら、ソフトウェアとしての初音ミクは死へと突入し、キャラクターとしての初音ミクもまた死へと突入するのだから)。

もし、声優を使うこと無く完全に人間と同一の声を発することの出来るソフトウェアが登場し、人間とソフトウェアが発する声のズレを感じなくなった時、そしてそのソフトウェアが”初音ミクではなかった”ときに初音ミクはどうなってしまうのだろうか。これもまた上記のように初音ミクに待ち構えているのは市場原理に基づいた淘汰かもしれないし、その技術を採用した新たな初音ミクの誕生かもしれないが、とりあえず今私達が耳にしている人間じゃないけど少し人間的な電子音(それを私たちは初音ミクの声としている)は、違和感を持って迎えられるのかもしれないし、過去のものとして存在し、オークションにて歴史的価値のあるものとして高額で落札されるかもしれない(この点については『ユリイカ2008年12月臨時増刊号 初音ミク ネットに舞い降りた天使』で増田聡氏が言及している)。

ではキャラクターの死という点ではどうだろうか。肉体を想像出来る<初音ミク>の死というのは、「綾波レイが死ぬ」(あえて象徴的なキャラクターを選んでいるので、綾波レイが死んだかどうかはこの際問題ではない。むしろラオウの葬式が実際に行われたことを引き合いに出せばいいのかもしれないが)などという文脈と一緒に考えることが出来るだろうか。これもちょっと怪しい。

エヴァンゲリオンという脚本には終りがある、初音ミクには終わりがない。公式というところ(N次創作での綾波レイの死を含まずに)を考えると綾波レイの生死は筋書きに縛られるが、初音ミクの生死は全くもって筋書きには縛られない。自由なのだ。死に関してもボールは<初音ミク>からこちらに投げ返されている。ただその自由さをよく見てみると、何百万とある無数の筋書き一本一本に何百万の初音ミクがそれぞれ縛られているとも言える。

そして次に迫るのは、肉体を想像できる<初音ミク>が死ぬことである。方や肉体を想像できる綾波レイということについては何の衝動も働かないうえに、ちょっとした違和感も感じる。初音ミクは肉体の存在を想像できても、綾波レイには「いや、キャラクターでしょ?」と考えてしまう自分もいる。筋書きを超えてくることの違和感だ。この違和感は、私が綾波レイよりも遥かに高いところまで初音ミクに傾倒しているから感じることなのかもしれないが(エヴァンゲリオンが登場した1995年に私は幼くも存在していたけれどもその熱狂の中にはいなかったが、初音ミクが登場した2007年の熱狂の中に私はいた。ファンダメンタルな話をするときにはもう記号化された綾波レイという使い方しか出来ない)、とかく初音ミクに対してはこの違和感を覚えた記憶はない。あまりにすんなりとその想像を許していた。肉体を持つことへの想像は、その名の通り想像力の賜物なのである。ただこの想像が自分史のなかでどこを起点に始まっているものかは未だにわからない。

 

ここまで考えておいて結局のところ、人間的な死まで想像出来てしまう”視聴者A”こと”あなた”さらに言えば”わたし”の想像力が、初音ミクの生存を支えていると言える。彼女は人間の想像力と、それを湧き起こさせる欲望によって生存している。考える人にはそれは肉体的な存在を想うところまで行き、彼女の生存を、”声”という絶望的なまでに換えようのないひとりの人間に依存するものに見出す。少なからず私はそうだ。

私はこれを「幸福な錯覚」と呼んでいる。この錯覚はあまりに幸福に私の耳から入り込み、脳をやさしく撫でるのである。トリップしているといえばトリップしているが、恐らくこの鬱屈とした自分の心象から解放される方法のひとつとして錯覚している。また幸福な錯覚は、すべて欲望によって成り立っている。私はこの欲望において想像し、彼女に肉体を与えている。こう書くと実に変態的であるが、やむを得ない。こうして肉体を想像できる<初音ミク>、私の中にいる彼女が肉体を持ったことによって初音ミクというキャラクター、偶像、あるいは至情捧げたエンターテイメントの終焉は肉体が死ぬ人間と同じように死として捉えることが出来るようになるのかもしれない。

彼女、<初音ミク>は私の想像力がそうであるがために、存在としての重みを手に入れてしまった。それであっても彼女は無邪気に歌を歌い続ける。私はこの幸福な錯覚を終わらせないために今日もヘッドホンから流れる、触れることの出来ない彼女が発する声を聴くのである。

「初音ミクの死」はVOCALOID、初音ミクというソフトウェアそのものには全く関係のない文学的な問題だ。この文学的な問いかけは初音ミクの歌声を聴く人間の想像力が原因しているが、初音ミクの歌声を聴くときに使用される力もまたこの想像力なのである。しかしこの文学的な問いかけと、それぞれの回答を持つことがどのようなことに影響してくるのだろうか。考えることが多いにも関わらず、彼女はふたつだけの耳では足りないほどに今日も歌を歌いまくっているのだ。

<初音ミク>というたくさんの”あなた”で作り上げた人格を得たキャラクターに終わりはない。すべては”あなた”の欲望が<初音ミク>を存在させている。欲望が終わるとき、”あなた”の<初音ミク>は終わる。それは死と表現してもいいし、眠りと表現してもいい。”あなた”に再び起こされるまで、彼女は眠り続ける。しかし、この死も眠りも<初音ミク>にとっては大した違いはないのかもしれない。すべては”あなた”の望むままなのだから。それを彼女がどう思うかの正解は、どこにも存在しない。

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