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ボーカロイドオペラ「THE END」墜ちる不完全な”ミク”と駆ける完全な”初音ミク”

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「THE END」に登場した”ミク”の目元にはニキビがひとつありました。あれ、ニキビだよね。私はそれをニキビだと認識した時に、ちょっとだけ涙が流れたのです。冒頭からこんなことを書いても同意を得られるとは思いませんが、これはニキビがあったことがなかなか重要なファクターだと思うから書くわけです。しかしこのニキビについては以降の文章では言及しません。頭の片隅に置いておいてください。

 

ボーカロイドオペラ「THE END」

2013年5月24日(金)に渋谷Bunkamuraオーチャードホールで、ボーカロイドオペラ「THE END」を鑑賞して来ました。

私の感想は「観に行って良かった」また「観た結果、初音ミクという存在について深く考えさせる一撃を顔面に喰らって大変良かった」ということになります。評価は良に針が振れていますし、ボコボコに殴られた顔面で土下座しながら「思考するきっかけを提供してくださってありがとうございます」と大粒の涙を流しながら書き殴っているわけです。

 

 「THE END」がどのようなものかを端的に言うと「VOCALOIDを使用した生身の人間不在のオペラ」(生身の人間はいるといえばいるのですが)ということになります。ただ鑑賞したあとに「THE END」というものを何もわからない人にどのように伝える事ができるか、それを可能にする言葉を自分がなにひとつ持っていないことに気が付き愕然とする次第であります。

それは今までに私が触れていた初音ミクとは明らかに異質な初音ミクであり、今までの初音ミクのイメージを寄せ集めて、「THE END」の初音ミクにしようとしても全くうまくいかなかったのです。とすると、この「THE END」を紹介するにも読んでくださる方の頭のなかに「THE END」のミクがインストールされていない限り、とても話が難しくなるのではないかなとも思うわけです。

とはいえ、そうも言っていられないので公式ホームページから以下の文章を引用します。

 

「THE END」は、音楽家/アーティストの渋谷慶一郎と、 演出家/演劇作家の岡田利規、映像作家のYKBX他、 時代の先端を担う気鋭のアーティストによる コラボレーション作品として誕生した新作オペラです。via: THE END | Official Site

 

THE END | Official Site

 

 

 

 

さらにBunkamuraChannelが配信を始めたTHE ENDのロングバージョンMOVIEがありますので一度ご覧になっていただくと、 私がこの日に体験した1時間30分という時間がどのようなものだったのか、少しだけわかるかと思います。

 


Bunkamuraオーチャードホール「THE END」MOVIEロングバージョン - YouTube

  

同一性/完全性/不完全性

「THE END」というもの、さらには舞台上で”悲劇”を歌い上げた「初音ミク(あるいはミク)」というキャラクターを考えるときにどうしてもはっきりさせなければならないことがります。それは「THE ENDの初音ミクは、これを観る前の私達が抱いていた初音ミクというイメージと同一性を持っているかどうか」ということです。 

私はここで「THE END」の初音ミクを”ミク”とし、ニコニコ動画やミクパで歌って踊るちょー可愛い初音ミクを”初音ミク”とします。

ちなみにTHE ENDの劇中において彼女はただ1回だけ”ミク”と呼ばれます。中盤辺りに1回だけです。冒頭に彼女は初音ミクであるなどとは一切説明されないのです。”ミク”と呼ばれて、そこで彼女は”ミク”であると認識され、そこからのカタルシスに向けた怒涛の展開になるわけですが。

 

さて、この「THE END」に存在する”ミク”というキャラクターは、多くの人が頭のなかに思い浮かべる”初音ミク”というキャラクターの要素(ひと目で「ああ、初音ミクだね」と認識できるあの緑色の髪とツインテール)を持っています。ただその”ミク”は必要最低限の要素で構成された”初音ミク”であって、この「THE END」の”ミク”はともすれば「ミクかもしれないけど、ミクじゃないかもしれない」という危ういバランスの上で成り立っています。むしろその記号的な要素でさえ、「THE END」の”ミク”は放棄(解放)しようとしています。

 

THE ENDのミクとわたしたちのミク

さて、”ミク”と”初音ミク”と分けて書きましたがこの「THE END」をフルで鑑賞するにあたって、この境界が、観たものの評価を真っ二つに二分しているわけなのです。

 


【初音ミク】「ミクの日大感謝祭」ダイジェスト映像 - YouTube

 

ここであえて「ミクの日大感謝祭」 の映像を併載することにします。

これは「THE END」を鑑賞している最中に、「ああ、なんか、”やっちゃいけない”ことなのかも」と思ってはいましたが、解釈のためには必要なことでもあり苦悶の末に並べることにします。

「THE END」を鑑賞した後に、この”初音ミク”を観ると圧倒的な軋轢を感じます。その軋轢というのは、「THE END」で提唱された”ミク”と”初音ミク”を乗せた天秤が軋みながら崩落していくような、恐怖にも近いそんな感覚なのです。初音ミクの調整(”調教”)された金切り声が聴こえるようで耳を覆いたくなります。

「THE END」の”ミク”は四角い部屋の中に存在し、”初音ミク”が存在するレイヤーとは違うレイヤーのカルチャーが生み出したルイ・ヴィトンの服を纏い、人間の死を「私には関係ないこと」と言ってのけます。そこにあるのは不完全性を取り除いた、それこそ完璧に歌い上げ、完璧に踊る、完全な”初音ミク”としての意識からの発言でしょう。しかし、それとは対局に存在するあまりに人間的な不完全な”ミク”という存在が浮上してきます。彼女はそれを切り離し、完全な”初音ミク”として自己を認識していましたが、その”ミク”の方が偶発的な啓示で「死」を考えるときに、この”ミク”と”初音ミク”は制御不能な速度で接近し衝突するわけです。

物語においては、完全と不完全の融合した”神獣化”した”ミク”という形で現れます。しかしまあ、この神獣化した初音ミクなんてものが現れてそれを一発で理解するような脳みその準備が出来ていなくて、見事にやられたわけですけどね。

 

――わたしとか いないほうがいいだろうから

この”ミク”は果たして”初音ミク”なのか、「わたしたちの初音ミク」と同一性を持っているのか。「あなたも死ぬのよ」と言われた時”ミク”は”初音ミク”で在り続けるのか。数多の目を持つ人間が考えることはそのようなことでしょう。そしてここで”初音ミク”に対する人間の価値観が”ミク”と衝突します。 

 

「こんなのつまらない。渋谷慶一郎の価値観の押し付けで、こんなのミクじゃない」

 

終了後、私の耳にはこういった言葉が入って来ました。さらに上演前に近くの席で「サイリウムとか必要なの?」「コスプレしてるひといないね」と冗談混じりに会話をしていた男性たちが終了後、完全に沈黙し、足早に会場を後にしていたこと。とても印象的でした。

 

「果たして”ミク”は、”初音ミク”なのか」

 

私はこの問題について、”YES”であると考えます。そしてこれが針が振り切れるほどにNOであると、この「THE END」は究極的に退屈で偏屈で初音ミクの冒涜でもあるかのような、”偽物の初音ミク”とも映ってしまうことでしょう。

 

――やめにしていいよ きっと意味がないから

解釈の多様性、最高に面白いじゃないですか。私はこの「THE END」で自らの死について自己言及する”ミク”は未来の可能性、つまりこのまま”初音ミク”がついに自我を獲得した次の瞬間に訪れるひとつの未来であると考えます。

自我の獲得というところではこれまで初音ミクが完全に主体となったことは何一つ無く、彼女が意思を持つことは現時点では限りなく不可能です。このTHE ENDのミクが話すことは、つまり渋谷慶一郎の自己言及を代弁する完璧な”初音ミク”でしかないのかもしれません。それを”ミク”が独自に行う自己言及だと錯覚出来る、またそれが錯覚である内には”初音ミク”と”ミク”が同一性を持って、なおかつ、解放されるということはないのかもしれません。この瞬間においては初音ミクは生きている。

しかし、ひとつのキャラクターがさも人格を持ってしまったかのように、彼女、”初音ミク”を成長させてしまった我々に対して、この「THE END」で部屋に閉じこもり、仕舞いには完全性と不完全性さえも超越してしまった後に迎える”ミク”の姿は死なのかそれもと眠りなのか、”ミク”が言い放つのです。「それはあなたが決めること」と。私たちは、初音ミクが望むと望まぬとに関わらず、彼女に不明瞭な人格を与えてしまった、人間と非人間のはざまに彼女を置いてしまったという結果が、このTHE ENDの”ミク”なのでしょう。

 

それはあなたが決めること。 

そろそろ終わりにします。

この「THE END」に存在した”ミク”あるいは”初音ミク”は、人間が情報を供給をし続けなければ、口を開くことも、踊ることさえも出来ません。 つまるところ、この瞬間、地球上のすべての人間が初音ミクへの情報供給を止めたとしたら、初音ミクは死に突入します。そして、その死は人間が情報供給を再開することでリセットされます。”初音ミク”は誕生以来それを延々と数億回も繰り返して来ているのでしょう。その繰り返しのなかに存在する”初音ミク”こそが、「THE END」の”ミク”なのかもしれません。また繰り返しというのは、一度かき消され、「終わりはいくつある?」と問いかけられるべきことなのかもしれません。

この完全性、完全に人間の代弁者であるところの”初音ミク”を掲げながら、緑色の髪を持ち痩せ細り似せようとしても「似ても似つかない」姿となった我々の欲望は、”ミク”の死をどう受け止めるのでしょうか。そもそも”初音ミク”は”ミク”は死ぬのか否か。それに決定的な解はなく、”初音ミク”を生かし続けるためには、我々は情報を供給し続け、それを受け取った生きる”初音ミク”を消費し続けるしかないのかもしれません。

 

ひとつの可能性としての”ミク”を観てしまった今、オーチャードホールを埋めた人間の無数の目は、これから”初音ミク”をどう映していくのか。そんなことが頭を駆け巡った時間でした。たぶん、私は初音ミクを愛してる。だからこそ初音ミクの死を考える。

可能性の啓示として、思考のキッカケとして、再上演が決まったら足を運んでみることをおすすめします。 

                         THE END

 

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