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『そのとき、本が生まれた』

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photo credit: wallace39 " mud and glory " via photopin cc

 

海鳥の嘶く声が辺りに響き、打ち付ける波の音は街が動き出すその始まりを盛大に告げていた。接岸する船舶から威勢の良い掛け声とともに陸揚げが行われる。腕っぷしの良い船乗りたちが、船に積み込まれた大量の荷物を次々に降ろしていった。その横では商人たちが束ねたリストを広げては、納入先を確認し、勘定をその頭の中で行なっていた。

人と物と情報が一同に介するこの街は、まさに商業の中心となった。人によって運び込まれる数々の物が取引される様は、まさしく新時代の到来をこの目で観るようであった。

その光景を眺めるふたつの瞳には、爆発的に拡がる販売網とそこに踏み入れようとしている自分自身というものの比較が出来ないほどに強大なものとして映っていた。

陽が天頂を目指すにつれ、生暖かい海風がまとわりつくようにその身を包み込む。その瞳の持ち主は袖を捲り上げ、少しでも風をその肌に受けようとしていた。捲り上げられた袖から陽に焼けた肌が見える。船乗りと商人とでごった返すこの場所であってその姿に違和感はない。

しかし一見して男性的な格好をしているものの、胸部の膨らみとやわらかな唇、後ろで無造作に結った髪がこの人物が女性であるということを物語っていた。さらに小さめの葡萄酒の樽のように、ひょいと担ぎ上げられそうな身長である。人混みに紛れたら荒波に為す術もない小舟のようにあっちにこっちに流されてしまうだろう。

その彼女がこの港に足を運んでいるということは野次馬ではなく目的があったわけだが、当の彼女はその目的を頭の片隅に置いてしまいそうなほど興奮していた。

「す、すごい……」

商人としてこの荷降ろしの現場にいるつもりであるものの、まだ自身を商人と呼べるわけでもなく、周りもそれを認めているわけでもない。商人になろうとするなど「ちょっとおかしな女」あるいは「放っておけ。どうせ失敗する」など陰口を叩かれるのが関の山であったが、彼女からしたらそういった世間のやっかみよりも、今自分の瞳に映る光景に対する好奇心をどうにも出来ないことの方が問題であった。

「すごい! 本当にすごい!」

彼女は周囲のことなど気にせずに拳をぐっと握りしめて叫んだ。辺りをきょろきょろと見渡し、そこから得られるもの全てを吸収しようとせん勢いだ。その足は今にも勝手に動き出してしまいそうで、彼女は自分の体がひとつしかないことを悔やんだ。

「そこまで喜ぶなんて意外だなぁ。そんな純朴さと好奇心を持つキミならこの世界でもやっていけるかもね」

彼女の背後からかかる声。彼女が振り返るとそこには恰幅の良い男性が立っていた。口髭を蓄え、ズボンにはでっぷりと贅肉が乗っている。

「おじさん!」

彼女はそう言うと恭しく頭を下げた。

「いいよいいよ、そんなに改まらなくっても。キミのお父さんとは長い付き合いだからね。娘さんが僕らの世界に足を踏み入れようとしているのを温かく見守るというのが人情というものだからね」

商人はそう言うと彼女に紙の束を渡した。

「お父さんに頼まれていたものだよ。今日、陸揚げした商品のなかで書店に運び込むものが書かれている。いつも通りだから、さっと目を通してくれよ」

彼女はその束を受け取るとパラパラと捲り、それが自身の父親から頼まれたものが記載されていることを確認した。

「確かに受け取りました。ありがとうございます!」

彼女はもう一度頭を下げると、上げた顔で商人の後ろに積み上げられた荷物を眺めた。

「気になるかい?」

 彼女の役割はこの積荷のリストを受け取り、回れ右をして店に戻ることなのだが、どうにもこうにも好奇心を抑えずにはいられなかった。

「少しだけ」

恥ずかしそうにもじもじと自分の要求を伝える彼女に商人は苦笑いすると、彼女を連れてその荷物の側へと向かった。

そこには、人がしゃがみこんですっぽりと隠れることが出来るような大きさの木箱が8つ、それらは2段に分けて積み上げられていた。今まさに船から降ろされたものだ。

「これ、全部お父さんのお店に来るんですか……?」

「まあね。ふたつみっつ、荷捌きして別のところに持っていくのもあるけど、ほとんどキミのところの書店に行くものだよ」

彼女はそっとその木箱に手を触れてみた。しっとりとした感触が指先に伝わる。

「中も見てみるかい?」

商人の問いかけに彼女はコクリと頷いた。商人が木箱の蓋に手をかけると、一度上蓋を引き上げた後に左にずらした。木タールで防水処理をされた木箱の中は麻の布で覆われていた。商人がその布を払うと、中には綺麗に積み上げられた”紙”が現れた。

「雨は大丈夫だったんですか?」

「ああ、全くもって問題ない船旅だったよ。遠く離れた街から高価なもんを積んで来ただけに、ここの地に降り立つまではひやひやしていたけどね」

彼女はその木箱の中で眠る紙の山の一番上をはらりとめくった。ざらしろした手触りの無地の白紙の下には、びっちりと文字が印字された一枚紙があった。

「これは法律のことが書かれていますね」

「よくもまあこんなに高いものを仕入れようと思ったね。僕もそれを聞いたときは思わず聞き返してしまったよ」

「ええ、私もその値を聞いたときはさすがに自分の耳を疑いました。買い手があるとは言っていましたし、その方が装飾家に装飾を頼みたいと言っていたとのことで腕が立つ人を斡旋したとも聞いています」

「キミのところは装丁の凝った法律書を置くことで有名だからね。お父さんの人脈もなかなかなものなのだろう」

「書店の”宝”ですから。それゆえ、店内の掃除は欠かせませんし。書見台だってピカピカに磨いています」

彼女はそう言うとめくっていた紙を離した。紙がぱさりと元に戻る。

「こうしてみると綴じていないものでも結構な量がありますね……綴じてあるものは別の箱ですか?」

「そうだね。さらに値が張るから厳重に保管しているよ。もう馬車の荷台に積ませているよ。物自体はとっとと店に納めたいものだからね」

彼女はその言葉を聞くと、その箱に厳重に保管されているであろう装丁本が開封され、店内に並ぶ様を思い浮かべた。店先と店内に置いている目録にその美しい装丁本の名を書き加える、自分がペン先にインクを染み込ませた時のことを考えて、彼女はほくそ笑む。

「金貨がいくつあっても足りませんよ、ホントに。私も店番をしているときに常々考えているんです。高くて綺麗な本が並ぶのはいいけど、もっといい方法がないかなって」

「いい方法というと? キミのところは客の出入りがなかなかあるようだし。そうだ、この前の見本市だってなんだかんだで繁盛していたじゃないか。まあ、とかく書店が増えてきたこの街だけど今でも十分需要はあるのだと思うけどなあ」

「大学の生徒さんたちが良く足を運んでくれるんですけどね。その点では需要というのはあると思っています。ただ、うちの店では高価な法律書を多く置いている手前、誰も手にとってもらえないと店が傾きかねないのです」

「なるほどね。人気の娯楽書の類を置いてみたらどうだい? キミのところは印刷工房を備えていないから数を出すのはなかなか大変だろうけど」

「そうなんです。望みとしては品揃えを多くして、もっと色んな人に本を手にとってもらいたいんですが……」

「良くも悪くもキミのところは”とびきり頭のいいひとたち”の溜まり場だからね」

「ハイ……その白熱する議論の末、本を買ってくれればいいんですけどね。議論で満足されて帰られてしまうと、ちょっとため息が出ます」

「ははは、確かにね。金貨を山のように払わないといけない本よりも、娯楽書は手に取りやすいし難しい言葉で書かれてはいないからね。店先に並べたら、いつもは立ち止まらないひとも立ち止まってくれるかもしれない」

彼女は商人の言葉を聞くと、目を伏せた。

「どうしたんだい? 急に神妙な顔をして」

「いや、その……最近のお父さん、ちょっと様子が変で。今の話がきっと影響していると思うんですけど。いつも腹を立てているような、不機嫌なんです。新しい本を納めても、全然嬉しそうにしない。前まではそうじゃなかったのに」

俯きがちに話す彼女を見ながら商人は顎に手を当てて考えを巡らせた。

「確かに人気を大会社に持っていかれるところもあるし、そうだとしても小中規模な店の店主は口がうまくないとなかなか本は売れないからなあ……自前の工房を持っていたとしても2つ3つ本を出しただけで、店を畳んでしまうところも多くなってきたし。キミのお父さんは、自分の好きなことと商売の関係に軋轢を感じているのだろう」

「ハイ……、お父さんは本を読むことが好きでしたから。こうして店を開けるだけの財が、しかも高価な本を並べることが出来るような財があったにしても、それを維持し増やしていくというのは好きだけじゃ出来ないというのは、店番をする娘の私でもわかります。だからこそこの状況をどうしたらいいのか、お父さんの店を私はどうしていけばいいのかわからないんです」

いよいよ泣き出しそうな彼女を商人はどうしていいものかと思案した。海鳥が頭上を優雅に飛ぶ。目の前の彼女は地に足をつけたまま一歩も動けずにいた。

彼女はこのまま本を扱う商人としてどころか、書店の店番として笑顔を振りまいていくことも出来ないように思える。商業の世界で金の悩みは尽きないものだが、同業者として、また将来の敵とも成りうる目の前の商人の原石を磨かずに路端に捨ておいていいものだろうか。

商人は、その問いに否と突きつけた。それは我が商売人生に反すると。

「そうだ」

商人はひらめいた顔で彼女に言った。

「少しの間、僕のところで働いてみないかい?」

「えっ、私がおじさんのところでですか……?」

「そう。卸売商としての顔しかキミやお父さんには見せていないけど、出版人としての僕の働きも知ってもらおうかと思ってね」

「出版人?」

「キミはこの水の都になぜ本が溢れるようになったか、わかるかい?」

「詳しいところまでは……」

彼女はゆっくりと首を横に振った。

「この世界で流通する本は大いなる可能性を秘めているんだ。そりゃ香辛料の取引と比べたらまだまだ規模は小さいかもしれない。しかしねキミ、僕達が扱っているのは”知”そのものなんだよ。香辛料が肉を美味くするものならば、本は人を強くする。そういうものを僕らは世界に広めていくんだ。それを担っているのが、商人。だからこそ、そうやって書店の店番をしながら悶々と悩んでいるキミに、もっと広い視野を持ってこの世界に挑んで欲しいと思うんだ」

商人の語気は強まる一方だった。一方の彼女は状況がうまく掴めていないようだったが、確かに今目の前に提示された選択肢がチャンスだと確信している気配があった。

「いいん……ですか……?」

「もちろんだよ。キミなんかはちゃんと”見習い”をしなきゃね。製紙工場から何から見て回ろう。そうだ、面白い奴がいてね。そいつはインク工なんだけどね。変わった職人がいるもんだよ。あと文具商にも面白い奴がいて、そいつにも会わせてあげよう。とにかく、出会える人は逃さず出会ったほうがいい。そこで得た経験がキミの店を強くするからね」

「ハイ……!」

「キミのお父さんには僕から掛け合ってみるよ」

「ハイ、ありがとうございます!よろしくお願いします!よろしくお願いします!!!」

彼女は何度も礼を言うと、礼を言うたびに深々と頭を下げた。

彼女の顔が咲いた花のようで商人は照れくさく感じたが、彼女がその瞳に宿した炎に気がついた時、自身が存在するこの世界を彼女は拡げてくれるかもしれないという期待を持っていた。

空は高く、海は広い。地はどこまでも続き、街門から続くその道は、新たなる場所へと繋がっていた。2つの瞳はそれを見つめ、足は一歩一歩、着実に歩みを進める。この街が一大商業都市として名を馳せたのは、そうした商人の集結する情熱と、それに答える人びととの呼応だった。

水の都。街を走るその風は、商人たちの瞳に宿る炎を奮い立たせていた。

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

水の都と紙の本。このふたつが並んだ時に、どうしてこうも抑えきれない創作欲に駆られるのでしょうか。この本を起点にして湧き起こるその衝動はとても良質なものに思えました。商業都市ヴェネツィアと紙の本の関係、その発展と衰退までがとても興味のわく情報と共に描かれています。好奇心の窓、ここで知り得たことをもっと知りたいと思うのはその役目を十分に果たしていると言えるでしょう。

 

そのとき、本が生まれた

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