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創作に必要な参考資料と必ず生じる不安

f:id:yukimid:20130501135814p:plain増え続ける参考資料

先日、2013年のゴールデンウィーク中に行った合宿で考えた創作に対する色々なことを書いてみました( http://colorfullife.hatenablog.com/entry/2013/05/01/162300 )。このゴールデンウィークというのも、自分の中では史上最も良質な読書週間だったようにも思えます。実際メディアマーカーで登録して管理した本の数も、1週間ちょっとの”少ない”休暇期間で読むにしてはなかなかな冊数でしたし、ほどよい満足感に満ちています(衝動的に『狼と香辛料』を全巻買ったりしましたし)。そんなゴールデンウィークの最終日、いかがお過ごしですか。私は絶望しています。

 

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f:id:yukimid:20130501135814p:plain参考資料と不安の在り処

さて、冒頭でこうして読んだ本の冊数について触れたわけですが、ここにきて「どうしたものか」と頭を悩ませていることがあります。それというのも前回書いたこと(ファンタジーの世界を創造することについて)に関連してくるのですが、「参考資料をどう作品に活かすか」という問題なのです。

参考資料、実に荘厳な響きです。参考資料という言葉さえ使えば今まさに行なっている作品の重厚さが増し、世界は境界無く拡張され、無限の空が広がることでしょう。ええ、意味わからないですね。

冗談はさておき、こと創作を行う際に参照した文献というものと、そこで得た情報を自身のイマジネーションに噛ませて、創作物に落とすというプロセスを”しっかりと”行えているのかと不安になるということなのです。

不安というのも、先日書いた記事の内容とも関連してきます。記事にした内容をそのまま受け取ると、世界設定構築の際には考えて考えて考えまくれということにもなるのです。確かにそれはそれでよいのですが、この状態(考えて考えて考えまくれという)というのは「ふたつの不安」との戦いになります。まずひとつめ「どこまでやればいいのか」、そしてふたつめ「創作に活かせるのだろうか」。これらに対する不安が前段の参考資料を読んでいるときに感じる不安につながっているのでしょう。

 

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f:id:yukimid:20130501135814p:plain不安1:どこまでやればいいのか

まずひとつめの不安「どこまでやればいいのか」に対する答えというのはほぼ決まっていて、それは「ほどほどにやれよ」ということ。これまた微妙な言葉ですが、「ほどほど」なのです。

まずどこまでがほどほどかというのは人それぞれなので、例えば「登場人物の設定を作るのは◯人以内がほどほどだ」ということは出来ません。ただ、おおよその基準というものは設けることが出来ます。

その基準とは全体に対してというよりも部分部分、大きく区分けされた設定(例えば国の政治について、流通について、文化について)と、小さく区分けされた設定(支配者の名前であったり、流通する商品を扱う商人の行動であったり、伝統的な踊りについてであったり)のそれぞれで用いられる統一的な判断基準と言った方がいいかもしれません。

それで、その基準というのは、「ストーリーラインに登場するもの(明確に描写するもの)と登場しないもの(描写せずまた匂わせもしない)のバランスが、後者の方が多くなったと感じた時」ということになります。「感じる」とありますがこれは多くの場合プロット作成時に感じることになるのでしょう。

この世界設定構築作業が開始されるタイミングというのは必ずプロット作成前に置かれ、それが折にふれて戻ってくることになる作業であることは明確です。ある程度世界設定の構築が出来たなあと思い、ぼんやりとしたストーリーラインの作成から、それを固め始めてからのプロット作成時に置いても、世界設定に対する見直しと手直しは必ず発生します。不都合は執筆前には正しておきたいものです(もちろん執筆中の修正というのも往々にしてあることでしょう)。

ただ、上記に書いたように作成した世界設定が明確になっているなっていない(それを自分で断言できるかどうかに)に関わらず、どのフェーズ(世界設定の構築時、ぼんやりストーリーライン考えタイム、プロット作成時等々)であっても「ほどほど」を基本とし、それらの作業においてその必要性が明確になりつつある箇所に向かって「一気に掘り進む(設定をより深める)」ことになります。そうすると、掘り進んだ箇所と掘り進んでない箇所のバランスが軋むこともありますから調整をかけます。そうして全体のバランスを整えつつ、深いところ浅いところを自分で明確にしていくのがいいのでしょう。

 

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f:id:yukimid:20130501135814p:plain設定の深さと浅さ

この深さと浅さのバランスについての例示ですが、例えばある魔法都市があったとしてそこでは人間が魔法を使うのに必要なアイテムが取引されているとします。そのアイテム自体がストーリーラインにおいて重要な位置(少なからず主人公が人間だとして、魔法を使うのだとしたら)にあるのですから、そのアイテムについての考察を進めるというのは創作活動を進めていくうちに必要になるでしょう(深める)。逆に浅くに留める場合はどうなるのでしょうか。この例ならば、このアイテムを売り買いできる商店の主人についてとか。それがストーリーラインで重要ならば深めるべきですが、登場しないもしくはワンシーンにしか登場しないというならば、この創作活動においてそれ以上の掘り下げは必要ないでしょう。また浅くていいと思っていたところを掘り進めなくてはならなくなったという場合も出てきます。魔法を使うためのアイテムを入れるペンダントの装飾職人とか。「そのアイテムと人間の媒介となる」みたいな設定を後に作ったとしたら、深めなければならない可能性というのも出てきます。

 

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f:id:yukimid:20130501135814p:plain不安2:創作に活かせるのだろうか

ふたつめの「創作に活かせるのだろうか」という不安に対しては、ひとつめの不安にくっついてくるコバンザメみたいなもので、ひとつめの不安に対する回答が「ほどほどにやれよ」ならば、こちらは「とりあえず書いてみろよ」になります。当たり前ですね。世界設定の構築時に活かせるもなにも、それらの情報を活かす行動(プロット作成や本文執筆)が未着手なのだったら判断しようがないと腹をくくるしかありません。

ただ、実際にそういった活かす行動をしているときに「創作に活かせるのだろうか」という不安が発生してしまったらどうでしょうか。これは未着手の不安というより、用意したものが消化不全に陥ってしまうことの不安でしょう。設定を作ったはいいけど(参考資料も用意したはいいけど)それらを活かせるだろうか(活かすだけの描写力はあるだろうか)と。描写力・表現力については自分も恐れているところではあるのですが、用意した情報に対してそれを描写出来なかった、自分の脳内に想像した世界が目の前の原稿に創造出来ていないことへの後悔とでもいいましょうか。それについてはそうですね……原稿を書き続けながら、バーボンでも流し込むしか対処法が見つかりません。打鍵する指が止まり、両の手を眺めなかった日はありません。

 

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f:id:yukimid:20130501135812p:plainそれは迷宮のように深い

ここまで不安について書きましたが、こんなことを考えたのは『金と香辛料』という大変興味深く内容的にも値段的にも手強い本を、図書館の貸出(ペンも付箋も使えない状態で読み進めること)では飽きたらずに買ってしまって読み進めた結果起こった問題なのですね。

参考資料として、いや、参考資料というものを考えるにふさわしい情報量を備えた重厚な本なわけですが。この本だけでなく、この本を起点に発生した興味に従って手にとった実際の関連図書、ネットからの情報を集めて読み始めた今、本来進めるべき本編というものをいかに書き続けるかという問題ですね。極端な話、こんなに情報量があっても使いきれるのか?むしろ、それを表現できる描写力はあるのかとか、ストーリーラインに乗っけていく構成力はあるのかとか考え始めるわけです。ここまで書いてきたこと、これらの塩梅ってとっても難しいものですね。

 

狼と香辛料 (電撃文庫)

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金と香辛料―中世における実業家の誕生

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