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つながりファッキンチェーンギャング

 

「リフォローしてください!」「リムーブされた!」「ブロックされた!」こうした言葉が喧々として踊り狂うTwitterにちょっと嫌気がさしたのがだいたいまあ半年前ぐらい。そこからすぐにフォローをせずに非公開リストに入れて、一定期間眺めてからフォローするかしないかを決めるというルールを用いた結果、私のタイムラインはとても平穏な、凪のような世界になりましたとさ。めでたしめでたし。

ひとつのアカウント(Kindle用以外のサブ垢というものを作っていないため)で複数のクラスタをフォローしていると実に様々な年代と接触するわけで、多様な思想(そもそも思想などないことも)を持ったひとたちで構成されるそれらのクラスタで”喧々”の部分に該当するような発言がまさに踊り狂っているわけです。特に年齢層が低くなるとこうした傾向が強くあるように思え、ああ、私は「オトモダチ」になることを求められているのだなあとお茶をすすりながら思うわけです(それを言ったら私も私で若いわけですが)。

”ソーシャルネットワーク”という言葉を聞いて思うところ様々でありますが、今回はTwitterなどフォローの関係を築くSNSにおいて、”タイムライン”がいかに自分とSNSとの付き合いの上で大事かというのを考えていこうかと思います。

 

まずどう考えてもタイムラインというのはメインストリームなわけでして、そこに流入してくる情報を自分で管理しない限りには、自分の思いもよらぬことを”勝手に”ぎゃーぎゃーとやられてしまうということにもなります。単刀直入に言うと、メインストリームたるタイムラインに自分の平安な心を乱すようなことがあってはいけないと考えるのです。例えば煽りdisり不安怒り理性のない政治批判等々、いやはや一昔前の”アメ車”のようにエンジン全開でぶぉんぶぉん言わせてるなあと思うわけです。そういった人の情報をタイムライン流すというのは、あからさまに自分の心象が悪くなります。ですからフローだなんだという前に、考えなしにフォローを増やすというのは私のポリシーに反します。

ということで今回のこの記事は「私がTwitterのフォロー数を4分の1まで減らしたたった2つの原則」とでもタイトルにしましょうか。いいえ「つながりファッキンチェーンギャング」で行きます。ファッキンとロックに叫びたいところではあります。意味は余りありません。とにかく、何でもかんでも”つながり””つながり”と、無方向に無鉄砲に無尽蔵につながっていくと、そのつながりを絶つ手段を持っていないがゆえに、コントロール不能に陥ってしまいますよねということなのです。”ルール無用のフォローゲーム”に手を出す前にルールを作れルールをとさんざんぱら言ってきたのです。

 

さて、Twitterを例に挙げたのでTwitterにおいて私がどのようなポリシーを持ってタイムラインに流れる情報をコントロールしているかと言いますと、以下の二点があります。

 

①タイムラインが最も目にする場であることを自覚する

フォローされたらフォローしかえさないと”いけない”なんてルールほど、トランプゲームの大富豪のローカルルール並に「ルールだというならルールなんだろう。おまえのなかではな」と言いたくなるものはありません。人付き合いが鎖の様に繋がれたものになっており、”フォローしましたあなたも私をフォローしてください”とチェーンになることを求められたら「そうですか、ではさようなら」と手を払いのけたくなることもしばしばです。これが礼儀だというならそれ以上の言及はしませんが、キャパシティの限界がある(無尽蔵にフォロー出来るように思えますが、自分が処理できる情報というのは限られます)自分のタイムラインになぜこうもほいほいと流し込むことが出来るのかと、むむむと考えたくなるのです。

Twitterに限った話ではありませんが、どのSNSでも情報が集約される場所というモノはあります。Twitterの場合それがタイムラインなのですが、そこに表示させる情報がTwitterを表示した瞬間に目に入ってくる情報だというところ、この当たり前の事実にどのような判定基準を持っているのか、また持っていないのだとしたらなぜ持っていないのか、そこのところを自覚するのがコントロールという点での第一歩だと思うのです。

とかく、ただ流れていく、しかもそこに写るモノが自分にとって酷く不快なモノだったとして、それが自分の生活(情報に触れる生活)のメインストリームで果たして心地いいのかどうなのか。心地よさの基準は人それぞれですが、私は私の心地よさを求めて行きたいと思う質なのです。

 

②情報は自らの選択で避けることが出来ること

情報を”得る”のではなく、”避ける”ことも重要です。これについてはなんといいますか”つながり時代の戦略的孤独論”と銘打って別記事で書きたいところなのですが、近頃(といっても始まりをどこにするかで変わりますが)TwitterなどのSNS界隈で、さらに言えばブログというものをメインにしている人たちの中で”つながり偏重主義”とでも言いたくなるぐらいの必死さを垣間見ることがあって、なんだかなあと思うこともあります。

誤解なきようにいうと、「人とのつながり」というのは大切です。そこから生み出される新たパワーは、今の生活に変化をもたらし、また自分の人生を一変させるような可能性を持っているわけですから。ただそうはいっても、そういったポリシーあっての行動ではなくて、焦燥感また人間の様々な負や弱みの衝動からあらゆる行動を起こしているひとも多く見えて、先のなんだかなあという感想にたどり着くわけです。

冒頭に書いた私よりも若い世代で構成されているクラスタの「オトモダチ原理主義」に似ていて、うへぇと思うのも我が事ながらうなずけます。またブログなどで言及される”ヒトトノツナガリ”という呪文についても似たような感覚があるわけです。「つながり偏重主義」とでも言いましょうか、「つながり礼賛」とも言いましょうか。ポリシーを持ってコントロール出来ている人ならば「なるほどね」と読むことが出来るのですが、そうでない人の場合、なかなか眼の色がどよんどよんしているように思えて、うへぇとか言いながらブラウザの戻るボタンを押したりします。うへぇ。

そしてそういうひとたちが記事などでほぼ言及しないのが、「情報を避ける」ということについてでしょう。自分の行動と矛盾するから言及しないのかどうかはわかりませんが、”情報は得るもの”という言葉の中に”選別”が含まれ、さらには選ばない情報もあるというところの言及をしてしまっては先のつながりに矛盾するからでしょうか。私としてはこれはRSS(近頃話題ですが)を使って得る情報収集における取捨選択の話だけではなく、TwitterなどのSNSにおける”ヒトトノツナガリ”にも影響をおよぼす話なのです。

すべての情報は自分のコンロトール出来る範囲内(自分自身で制御できる範囲)のものしか基本扱えません。ですから、”ジョウホウシューシュー”の大切さを説きながら、ルール無用でフォローし続け、”ツナガリ”というひとつの大義名分のもとにSNSのタイムラインに流入させる情報を増やし続けるのは、なんとも言ってることとやってることが矛盾しているように思えるのです。

 

以上ふたつを踏まえて私がTwitterで行っていることは、冒頭に書きましたフォローの前にリストへの追加(それは公開リストでも非公開リストでも。だいたい非公開のリストで)です。影響調査と言ってもいいかもしれません。

まずリスト内でそのアカウント(人でも個人でも)の発言をよく観察して、タイムラインに表示させるかさせないかを決めます。タイムラインに招き入れても、フォローを外してリストだけに戻すこともありますし、ブロックすることもあります。しかもそれはポップに行います。実にポップな感じで行うのです。

それらの行為が誰かの心象を害すことになったとしても、優先されるべきは自分が日々目にする情報の心地よさであって、深みであって、知的好奇心の充足なわけです。ここで実際の人付き合いはあまりTwitterでは考慮されていないというのがミソといいますか、よりシビアに管理していくのがTwitterだと思っているところがあります(世の風潮と矛盾するかもしれませんが)。

やれ、つながりファッキンと書いて来ましたが、自分の目にする情報の心地よさを考えた時にメインストリームたるタイムラインの管理というのはこの”つながり時代”においてはより一層考えなければならないことであります。

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