当事者性を失う日常の描写

 

4月1日です。実に麗しい。快晴、体を目覚めさせるひんやりとした風、そして散り際の桜。いいものです、実にいい。

 

さてこうした空であったり風であったり、ホントもう散り際の桜を見てたりすると、時に当事者性を持った文章表現というものが、自分のなかでどのような作用をもたらしているのか気になるということがあります。気になると言っても、そういうことを考えると往々にして自分の表現力であったり構成力の至らなさに目が行ってしまいがちなのですが、それは今回置いておいて”日々の生活で表現を意識する”ということを考えてみようかと思います。

 

日々の生活といっても、それは本当に日常生活そのもので、起床に始まり、私の場合はとことこと職場に向かって仕事をして、ご飯を食べて、仕事をして、またとことこ帰ってきて就寝なわけですが、そうした誰しもがそれぞれのルーチンで繰り返している日常のことを指します。そうした繰り返しの中で行われる”表現”というのはどういうことなのでしょうか。なおかつそれが当事者性を持っているといるということとは。

 

日々の生活の中で目にするもの肌で感じるものは、一度脳内で言葉に変換されています。脳の仕組みを詳しくは知らないので正確かはわかりませんが、例えば肌を刺すような冷風に対しては「つめたい」という日本語が浮かぶことでしょう。「つめたい」という言葉の字形がポップアップのように頭の中に浮かんでくるわけでは必ずしもありませんが、考えるときに使う言語というのはやはり日本語であると思うのです。

 

そうするとですね、そうやって頭の中に浮かぶことばの表現について気になってくるわけです。例えば、同じ桜の木を毎日見ていたとしてもそれは今日と一週間前と一週間後ってその姿は異なるわけじゃないですか。それを見た時の自分の頭の中の言葉が毎回毎回「桜だ」だったりすると(さらに言えば見ているだけで何も言葉が浮かんでいない状態)、そうすると我ならがあとになって後悔するわけです。それだけかよ、と。桜の木を一本見るにしても、そこに何かしらの形容があっていいと思うのです。

 

自分の中で”学校の空気”がどんどん遠くなっていく、薄まっていくのと同じで、過去に表現できたものが当事者性を持って今表現できなくなるというのは宿命でもあります。小学生が小学校の様子を克明に描いた大長編みたいなのがなかなか出ないのと同じで、当事者性を持った表現が出来る環境、状況というのはこうした繰り返しの毎日の中でも大きな視野で見てみるととても刹那的だなあと思うわけです。

 

そうしていくと、古代より人間が始めた感覚、風景描写を、現代でコツコツ働く、日常を淡々と繰り返す自分も積極的にやっていきたいと思うのです。自分の頭の中で表現力が枯渇、またそれに対して無気力無関心になるのは、あるひとりの自分の死だとも考えています。

 

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