読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【書感SS】『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』(倉下忠憲)

 

文芸部の部室は風通しが良い。

それは夕日を浴びる白いカーテンがゆらりゆらりと寄せては返す波のように揺れている様、さらには時折本に触れる手の表面をさらって行く風からも感じることが出来る。とにかく文芸部の部室は風通しが良い。その程良い風通し、ジメジメとしない環境がこの部室に積み上げられた無数の本たちには何らかの良い影響を与えているのだろうか。はたまたそうした環境がこの場所で本を読むという行為にも良い影響を与えているのだろうか。

部室の奥、窓際には校長室にあるような仰々しい机がひとつ置かれている。かつてこの学校の校長室で使われていたものだろう。その机の上にも本が積み上げられている。場所さえあれば、そこには本が置かれてしまうのだ。

 

「”読書術”というものはいつの時代だってあったはずよ」

 

机に積み上げられた本の山が突然しゃべりだしたかのように聞こえるが、なんのことはない。本の山の向こう側には年期の入った椅子(校長室机とセットになっている革張りの豪勢な椅子だ)が置かれており、そこに座るこの部室の主の声だ。

その小柄な体躯にはあまりに大きすぎる椅子に、深々と腰掛ける。椅子に飲み込まれるように座っているため”だらしがなく”見えるかもしれないが、その座り方が彼女のお気に入りであった。肩を通り越して胸まで伸びた黒髪が、その小さな胸の膨らみに乗り、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。

 

「あの夏目漱石だってなにも考えずに本を読んでいたわけではないはずだし、その方法”読書という行為そのものに対する言及”だってしていたはずよ」

 

彼女はそう息巻いた。僕はそんな彼女を見ながら内心またはじまったと苦笑する。

 

「というと?」

 

僕は彼女に聞き返してみた。

 

「この時代の読書という行為そのものにも、もっと言及するべきだと思うの。だってそうじゃない、スポーツでも10,000回のデタラメな素振りをするより、100回のしっかりしたフォームで素振りした方が身になるって言うでしょ?読書という行為が思考のスポーツなら、そのフォームに該当するものに対する言及がもっとあっていいと思うのよ」

「ほう、それはそれはたいそうなおはなしで」

「例えば、読書って究極的には”私と本”という関係に辿り着くでしょ?」

「だろうね、それはいつの時代だって変わらない」

「この時代が”ソーシャル時代”なんて名前が付けられたにしてもよ。スマートフォンだなんだっていっぱい出てきてそれは大変素晴らしいことだけど。こと読書の本質そのものを見てみると、方法は進化してもその本質はいつまで経っても変わらないでしょ。まず自分がひとりで本を読まずして誰が本を読むというの?」

 

もちろんそうだ。本を読まずして”読書する”というのはなかなかというより、ありえない。食べ物を食べずして空腹を満たすという半ばSFチックなことがこの世界で実現していればわからないが。

 

「つまりそれがソーシャル化、どこかのなにかだれかとつながることが容易になった時代でも、自分で読まない限りには読書なんて行為はありえないのよ。ありえないのだとしたら、じゃあ自分はどう本を読めばいいのかって話になるわけ。そうすると今も昔も乱読多読精読速読なんて言われることを繰り返すしかなくなっちゃうじゃない」

 

これだけの本に囲まれている彼女がそういうのはなんとも説得力がないように思えるが、彼女が言うことも一理ある。読書という行為へのアプローチは今も昔もこれからもこのままでいいのだろうか。

 

「そうだね。これだけ時代の変化があるにしても、読書の本質その形を変えないからね」

「傘の形が相も変わらず変わってないのと一緒よ。本質を変えようがないから」

 

今日の彼女は饒舌だ。なにか良いことでもあったのだろうか。

彼女はマグカップに口をつけた。部室のコンセントに接続された電気ケトルは彼女が持ち込んだものだ。戸棚には数種類の紅茶のティーバッグがしまってある。彼女はティーセットで飲むことを所望しているが、現実問題うまくいかないらしく、簡単に済ませている。

マグカップを机に置く。コトリという音が静かに響いた。

彼女は学校生活(”今”という時間を除く)では終始無口である。学校生活においてはなにひとつ表立ってすることがなく、この文芸部という部活はそんな彼女のためにあるようなものだった。

なぜ彼女独りで部活が成り立つのかというと、この文芸部はこの高校において歴史のある部活で、数十年前はこの文芸部から小説家や評論家を輩出した(名前は知らないが)こともあるということだ。年々確実に規模を縮小してはいるものの、この部活の存在自体は守られ続けていた。学校側の配慮とも言えるが、いかんせん所属は彼女だけであって、彼女がいるうちはこの部活および部室の守り人は彼女である。彼女が卒業したあとのことは、僕にもわからない。

 

「”読書”とひとことに言ってもその行為自体は、人類は未だにそれを続けているのよ。ご飯もお風呂もはるか昔から続けていて、読書もそれらと同じようにはるか昔から続いている」

 

彼女はそう言うと、テーブルの上に置かれた本に手を伸ばした。

 

「ソクラテスだって同じ事していたんだから、そう思うと人類の歩んできた歴史の地続き感があるのではない?」

「今回は随分と遠回りな言い方をするんだね」

 

彼女はたまに大空を舞う鷹のように、ゆっくりとゆっくりと話の核心に近づく話し方をする。まるでその工程を楽しんでいるかのように、内心を表現していく。

 

「読書とは人間にとって根源的って言いたいのよ。根源的で、さらに言えばそこから生まれてくるのは孤独よね」

「孤独? それはネガティブな意味で?」

「そうでもないわ。”独りで本を読んでるなんて寂しい奴”なんて言うワカッテナイ輩が使うそんな安っぽい孤独じゃないわ。孤独とは言っても、さっき言ったようにそれがただの断絶された孤独ではなくて、個と全体って意味になってきているのよ。だから読書の本質はあくまで私と本という関係だけど、読書という行為にはそれこそソーシャル化、”私とあなたたち”という関係も生まれてきているということなの。おもしろい潮流だと思うわ」

「そういった時代だから本を読むという行為、方法が変わってきているということだね。じゃあ、どうすればいいのかな?」

「あなたにしては珍しく問いかけをしてきたわね」

「僕だってそうするさ」

「そうね……」

 

彼女は窓の外に視線を向ける。手にしていた本を机の本の山の頂上に置いた。

 

「”対話”かしらね」

「”対話”?」

「そう、対話。こうしてあなたと話すのも対話。そして自問も対話。”私と本”、”私とあなたたち”という関係性においても対話は読書という行為の質を高めるわね。さらに言えばそれで高まるのは自分自身の思考力よ」

「なるほど。言わんとしていることはわかるけど、その”対話”というのは”どう読むか”というところの具体的な回答になってはいないね」

「簡単なことよ。問いかければいいんだわ。わからないことはわからないと言う、わかることはわかると言う」

「それはどうやって?」

「文章を読み、頭で考え、心で唱え、手にしたペンで書き記すのよ」

 

彼女はその後にもちろんキーボードでもいいわねと付け加えた。

 

「本を読むって、自然なことだと思わない?」

「そりゃまあ、思うね。僕が言うのもなんだけど」

「ここで読書術の話に戻るの。私にとって本を読むことは自然なことだわ。じゃあ、私以外にも本を読むのが自然なひとがいたとして、その人はなにか本を読むということにモヤモヤとしたものを抱えていると」

「モヤモヤ?」

「”なんでこんなに読んでいるのに何も達成できないのだろうか”って」

「何もって何さ」

「そうよ、そこなの。何もってなんなのよって聞く度に毎回思うわ。頭で考え、心で唱え、手にしたペンで書き記すとは言ったけれど、それってとても能動的な行動よね?」

「そういうことは”わざわざやるもの”だとは思うね」

「じゃあなぜ、わざわざやるのかしら」

「それは目的とか目標があるからじゃない?」

 

身を委ねるようにして深く座る彼女は、胸にかかった髪を人差し指にくるりくるりと巻き始めた。彼女の癖なのである。

 

「対話って話をしたけれど、それで目指すのって結局記憶への定着でしょ?じゃあなぜ記憶への定着をさせたいかというと、定着した記憶と記憶を結びつけて思考できるようになること。そうやって高めた思考力で人は何をしたいのかしら」

「仕事で失敗しないようにしたりとか、あと創作をしている人にしてみれば創作物をより良くするためにとか」

「でもそれって目的ありきで本を読む場合よね、じゃあ、そもそもその目的がない場合は?」

「目的のない読書?」

「気ままに読むなんてことでもいいわ」

「それも往々にしてありえるね。あって然るべきだけど、キミが言ったようなモヤモヤを抱える人にはもどかしいだろうね」

「それを受容しないと、読書が楽しくなくなると思うわ。読書による目に見えた効果を実感できない、またそれを定義できてないうちは目的のある読書は下手したら辛いだけかもしれないわ。要はバランスなのよ、このふたつの。そして定義し、時と場合によって切り替えていくことね」

 

彼女は椅子から立ち上がった。彼女の重みを受け止めていた椅子がその重みから解放されてギシギシと音を立てる。

 

「”読書の目的のあるなし”が影響するのは”読書の本質”ではなくて”読書という行為そのもの”なの。だから読書という行為そのものたる”読み方”というのは読む本によって変わるのよ、もちろん読書の目的によっても変わるわ。あなたの問いかけに答えるわ。”私と本”という読書の本質、”私とあなたたち”という読書という行為の変化が生まれているこのソーシャル時代において、本の読み方はその本によって変わる。何をどう読むかは依然読み手に託されているのだから、漫然と読む前に”読み方そのもの”について一度深く考えてみるのもいいわね」

 

午後6時のチャイムが鳴る。陽は傾き、風が止む。話を終え、一息ついた彼女に僕はこう尋ねた。

 

「本を読むのは楽しい?」

「ええ、もちろんよ。そしていつまでも楽しいものであって欲しいわ」

 

彼女は僕を持ち上げると、本棚へと優しく戻した。

 

 

ソーシャル時代のハイブリッド読書術

ソーシャル時代のハイブリッド読書術

 

R-style » 『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』