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”文書を書いている私”という快楽物質と消費される時間

徒然なるままにと書くのもいいですが、こうして何かを書こうという時に「何を書こうかを考えながら書く」というリスキーかつ超燃費悪い方法を取っているのですから、なかなか目も当てられない状況ではあります。日々思うこと、自分の書きたいことを書けばいいのだよ、と多くの人は言いますが、そこには文筆という行為そのものが対価としてのリソース(時間や気力やその他諸々の○○力、そして代わりに得られるはずだった何かの機会)を消費する行為であるということを念頭に置かなければなりません。

中でも私が強烈に意識しているのは、文章を書くという行為が他の作業と全く同じように時間を消費しているということなのです。


当方、会社員でありますし、1日の活動時間(睡眠や食事、家事などの時間を除いたもの)は仕事に割きます。もちろんこの間は、こうした文章を書くということはあり得ません。1日の8時間が対象となる時間から消えます。そうすると、1日で書物に使える時間というのは私の場合、4時間程度になります。1日4時間。結構、十分な時間があるようにも思えます(実際そんなことは全くないのですが)


ここで自分がまずもって時間を意識しているということに話を戻しましょう。仮に1日4時間が供給されたところで、それを100%フル出力で毎日使い切れるかというと自信がありません。自分でも、体調の悪さや”気分の乗らなさ”(これがスーパー厄介)によって出力結果が大きく変わるということはわかっていますし、それを実感するのも「日々思うこと、自分の書きたいことを書けばいいのだよ」という”甘言”の甘いところを剥いだ先にある苦痛を知った時だったりするわけです。


文章を書いている、また文章を書いている自分というものに熱中してしまうとその文章が完成するという未来像に対して、それが実際どれだけの時間が掛かることなのか、またそれに今までどれだけの時間を投下しているかということが忘却の彼方へ行ってしまうことがあるのです。文章を書いている自分、書きたいものを書いている自分に没頭してしまうと、リソース(時間)は有限であるということが、文章を書くという行為に反映されないのです。


文章を書くという行為に時間は有限であるという事実が反映されないとどうなるのでしょうか。

まず言えるのは、怠惰になっていきます。文章そのものの質ではなく、執筆者本人の態度の問題ですね。書きたいことを書いている自分に惑わされてしまい、時間を投入するればそれにうっとりすることが出来るわけですから。ヘタしたら完成は遠のき、完成したにしても、はあそうですかという反応しかない、むしろ反応さえもないという状況になります(ここも話が尽きないのですが「自我の表出と他者の評価」の問題だったりします)。

ペルソナの問題かもしれませんが、いかんせんある一点を超えた時に感じるようになる「文章を書いている私」というものは、快楽物質が分泌されるようにも思えるのです。いや、出てますねこれ(巷で言う”ブロガーな私”というのも同じかもしれません)。


文章を書く。冒頭で徒然なるままに書くということを挙げましたが、徒然なるままに書くことは、それを徒然なるままに書いている時間が存在し、それは遡ることが出来ない、一方通行の消費行為であるということなのです。徒然なるままに、なのにです。文章を書いている自分、というものを意識し始めるころ、この様に意識してくる”時間”。

自分が投下した時間に対して、出来上がる作品、そしてそれを書いている最中に書けたかもしれない”別の最高な何か”。物を書くということと時間について、徒然なるままに書いてきましたが、ここに書いたことが消費した時間に対して見合うものか、私にはまだわかりません。