ラットマンの憂鬱

 

自分がどのような立場に立っていて、また自分がどのような振る舞いをしていけばいいのか。そうしたことを考えていくと、自分というものがさも自分ならざるものとして乖離していくような感じがある、と言ってしまうと元も子もない話の始まりなわけですが、とかくそのような感覚に陥ることがあります。特に最近、仕事というものを考えるときには。ヒトにもネズミにも見えてしまうところ、なんというかラットマンのようです。

仕事について考えるとき自分が大きなゆりかごの中に放り込まれたように思えてくることがあります。そのゆりかごは楽園とも言えるのかもしれません。

ここで楽園という表現をすることがビジネスという場においては適切ではないのですが、でもそう言わざるを得ないのかなと。ゆっくりと、指先から空に溶け、自壊する、死にゆく楽園。それは私が存在する空間にも言えますし、私がそれを認識するときのひとつの思い込みにも言えるのかもしれません。いつか死ぬ、あたたかな、思い込み。

私が楽園と表現し、またそれが死に向かうと表現するのは、将来に対する明確なプロセスをこのゆりかごの中にいることを前提に描かせようとする圧力を感じるからなのです。

しかし、そうした環境依存の将来設計なんてこの10、20、30年を振り返ってもなにひとつ確実性を持った試しなんてないじゃないですか。ましてやこの2013年という時代に生きる24歳の自分が、将来設計なんてものを環境依存で考えるなんて、それこそ夢物語、それを夢想するのはあまりにも夢想、楽園的なのです。

そんなことはわかりきっている、わかりきっているが、それから目をそらす”ため”に強力な内的な衝動がないといけない。しかし、このゆりかごの壁は高い。徐々に上から崩落していく外壁。見えざる手によって楽園から除外される人間。死にゆく、私の、思い込み。

自分自身をどう見るかを意識しない限りには、私自身はヒトにもネズミにも見えてしまうというところ。その拠り所の無さ、不確定な自分の見え方、内面の自壊。自分自身をヒトだと叫ぶには、ラットマンにヒトの口があるように見なければならない。

ラットマンの憂鬱。それは恐ろしく、また、そうであることが楽園の中に存在するためのひとつの条件、その楽園の自壊とともに崩落する自意識を受け入れる手段なのかもしれません。ゆりかごの底で、届かぬ空に手を伸ばし、自壊していく自分の腕。憂鬱はいまも尽きない。

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