これから小説を書きたい人の1千時間と10万文字

 
小説を書くということがいかにして一般的なものとなったか、という歴史を紐解こうとすると、それはもう膨大な時間を費やさなければなりません。ただ、小説を書くという行為そのものが一般的なこと(それを夢想だと揶揄するひとは多くいますが)であるならば、表現方法のひとつとして試してみる価値はあると思うのです。
また小説というものは明治大正期からレッドオーシャン化が定められていて、今となってはその世界が真っ赤であることが当たり前となっているので、書くも辞めるも誰も咎めなくはなっています。
小説を書くという行為にどれだけの時間がかかるかというのは、自分の能力(執筆能力だけでなくそれ以外の執筆を円滑にするための能力)に多いに依存します。だからこそ、小説を書くというのは自己鍛錬と自己成長とが複雑に絡み合っている屈指の知的ゲーム・芸術・スポーツだと思うのです。
  
まあ、そうはいっても小説を書くのであれば、書いたものに対する評価というものが欲しくなってしまうもの(そもそも文章表現というものは承認欲求の表れであったりしますし)。そうした承認欲求が止めどなくインフレを起こして、身を滅ぼしたひとは数多くいますが、これは文豪だけに限られた特殊な例ではありません。小説を書こうと思った瞬間に誰しもが背負うものなのです。
いざ小説を書くとなったときに、自分の作品に対する承認欲求と、その承認欲求を満たすに値する作品の質と、それを生み出すために必要な創作時間の関係に打ちのめされてしまうわけです。
そりゃ、いきなり国立競技場のフィールドに立てるわけがないのです。そうしたときに小説を書くという行為そのものは酷くパーソナルなものになります。フィールドがレッドオーシャンであり、承認欲求のインフレも自分が起こしているわけですし。心も体も行動もすべて自己管理。 
 
なんでこんな話をし始めるかというと、昨今の個人出版の潮流から「お、すぐに”出版できる”(←これは本当もう言葉のマジック)なら自分も小説を書いてみようかな」と思うひとが増えていく(爆発的ではないにしても)と思うからなのです。
そこでそういった人たちが成長するための基準となるのが「習得のための1千時間」と「長編小説に分類される10万字」のふたつの数字です。これらを小説を書くという、ともすればコンパスなき航海を避けるための指標に使うというのが手です。
 
まず「習得のための1千時間」は様々な場所で言われていることなので詳しい説明は省きますが、ひとつの感覚(まだデビューというものをしていない自分が言うのも難ですが)としてこれはデビュー前(なにをデビューとするかは人それぞれですが)に突破しておくのが良かれと思います。
小説執筆という行為にかけた時間が1千時間ということ。そして次に来る1万時間という数字。とても時間がかかります。それには、考えただけ考えても文字は一文字も進んでいないという地獄のような時間もここに含まれます。くわばわくわばわ。
 
また、10万字というのはおおよそ文庫本一冊(手にしてちょっと軽いかなと感じる文庫の厚さ)に該当します。上記の1万時間のうちに10万字と考えてしまうと、ちょっと簡単なように思えてしまいますが、この10万字が意味するのは「”長編小説”に分類されるもの」をひとつ書き上げるということです。その長編小説の括りを10万字としているわけです。
ただいきなり10万字の長編小説が書けるわけではありませんから、これを書き上げるためにはなにをどうしていけばいいのかと考えるところから始まります。これは物語の質とはまた別に、小説を書くという行為に対するセルフマネジメント力をつけるという目的を含んでいたりします。
 
小説の質はかけた時間と打ち込んだ文字数には比例しないことも確かではありますが、これだけの時間と文字を投じた実績を積み上げたうえで、「面白さとはなにか」「売れるとはなにか」といったことを自分の能力(蓄積に裏打ちされた)と比べながら考えるのがひとつの方法かと思うのです。
 
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