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所在のない不安と読書


思うところ、本当に思うところあって、最近自分の行動により一層注視しています。
なにがあったかというよりも、何かが起こってからでは遅く、今の私の対応力では見るも無残にその繊細な硝子細工は粉々に砕けてしまうと思うているからなのです。
冷気が首筋を触るようなそんなジリジリとした緊張感と恐怖心に苛まれる日常ですから、これというのは自分で築くことが出来る最後の砦なのかもしれません。そして自分の行動に注視するとき、その行動が私の血肉となっていることをイメージするのです。
時々、自分の所在のなさに不安を覚える時があります。こういうときにこそ、自分の行動を見るべきであって、そのとき私は何をしたのだろう、何をするのだろうということを考えます。自分の所在のなさから来る不安をどう扱うべきかは、それこそひとを極限まで追い込んでしまう問題であったりするわけです。
とはいえ今の私にしてみればそこまで困窮はしていない、そうだけれどもなんとなく不安だ。そしてその不安は遊び半分に臨界点を超えやがるものだから、たちが悪い。臨界点を超えた時に言いようのない、不安とも片付けにくい重々しい感触が背にかかり、地面に押し付けられ、奥歯を噛むわけです。「またかよ、何に不安になってんだよ」と、食いしばりながら。
こういう時にこそ私自身が何をするのかというのを、考えているのです。
Twitterを開き、意味もなく更新ボタンを押して押して押して、ただただ流れて行くここにいない誰かのツイートを眺め続けるとか、ニコニコ動画を開いて片っ端からおもしろ動画を眺め続けるとか。そういった行動を多くしていることがわかりました。しかし、行動に注視してみると、完全に受動的、さらに言えば頭を使わない(リラックスするという意味ではなく、悪い意味で)でいることがさらに自分の不安にブーストをかけているということがわかったのです。
実にありがち、逃避行為に裏切られ時間という金で売られてしまうと。
この二重苦には、逃避にもある程度の前進感を持たせるというのが対抗策かと思います。
最近の行動として顕著なのが、ただひたすら本を読むようにしています。不安を感じたら、一文字でも本を読む。ポケットにはiPhone、カバンには文庫本とKindlePaperwhite、机には重厚なハードカバーの本。所在のなさに対する不安が、所在のない逃避を産んで、誰と戦ってるのかわからない不安に苛まれるとき、ただひたすら本を読み、それが私自身の血肉になっていることをイメージする。
所在のない逃避も本を読むという行為も劇的な効果が見えないというのは同じで、それに対する不安を感じるということもあるかもしれませんが。とかく自身の血肉となっていることをイメージするのは、不安が暴走するのを防ぐには悪くはないようです。
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