最高速の存在証明

 

自分自身の存在証明というものをいかに考えていくか、その答えを出すこと自体なにか人生をかけた壮大なテーマなように思えてしまいますが、当の本人からしたらこの問掛けというものはもはや自分自身では制御できないほどに熱せられているのかと思うのです。

 

人間誰しも哲学者になる素質があると思っています。いや、哲学的思考を持つ素質を誰しも持っているということでしょうか。とにかく”私とは”と考え始めた瞬間に、思考は哲学の範疇へ踏み込み始めるのです。ですからこの自分自身の存在証明に対する解というのも、哲学の範疇において解決されるべき話なのかもしれません(別の方法もあるか……)。

 

自分の存在証明なんて、なにか適当な答えがあるわけではないですし、学校の校庭にラインマーカーで「私はここにいる」と書き記しても、それ自体がその人自身の存在証明にあたるかというと、他人には何一つわからないのですから。

 

この他人には何ひとつわからないというところがミソでして。自分の存在証明を定義しなおかつその状態を達成したところで、それは他人には間接的にしか理解し得ない、とてもとても個人的な欲求の達成なのですから。それを他人が”我がことのように”祝福してくれるかというのは、自分の存在証明に纏わる話とはまた別のところにあるのです。だから自分の存在証明を定義する過程で、闇雲に他人を巻き込んでも、そこにはポッカリとなにもない空間が自分と他人を隔てることになるのです。

 

新年早々、方々で自分自身の存在証明のあり方を定義し声高に宣言されているのを、ゆりかごの如く揺れる安楽椅子に腰掛けながら、肘掛けに頬杖ついて眺めるわけです。そして窓に映る1月1日の空に向かってひとりごちる。

一年が半分だったら、みんなもっと楽になるのに。

 

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