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書きたい文章と書きたくない文章

*なぜ書けないのか

世の中は文章に溢れていて、その文章を書く人も読む人もたくさんたくさん溢れています。それらは様々な経緯で生み出され、中にはベストセラーとなるものや、後世に語り継がれるものもあったりします。

文章と言っても必ずしも本屋さんで売られているものだけが文章にあらず。こうしてWeb上に掲載されるテキストもそうですし、はたまた誰かに対する手紙なども文章であったりします。

結局のところ、世の中は文章で溢れているというのはそれぞれの言語で記された語句の塊が溢れているということなのですから、これとこれとこれが文章だから世の中にはどれほど文章が溢れていることになります、なんてことを考えて行くのはあまり有益とは思えません。

そうして文章で溢れている世の中というものを受け入れるわけですが、ここで困ってくるのが自分が書き手となった時にどうしても書くことに対する障壁のある文章というものも存在しているということなのです。単刀直入にいうと、書きたくない文章が存在するということなのです。


*書きたい文章とは

書きたい文章、書きたくない文書を考える時にまずわかりやすいのが、小学校での”読書感想文”でしょうか。あれは実に書きたい書きたくないが別れる文章であります。

私はというと、読書感想文を”書きたい”タイプの小学生でした。放課後は野球したりミニ四駆したりカードゲームしたりしましたが、それでも本はそれなりに読んでいましたし、宿題の読書感想文はひとつの”お話し”であると思っていた節があるので苦労はしませんでした。

お話しというのは、先生に対して「先生あのね」と自分が読んだ本を説明する、ということですね。こう考えているとそれは宿題という重々しいものではなくて、本の紹介ということになりますんで、自分がおもしろい!と思った本を先生に紹介するともなれば俄然気合が入るわけです。褒められたがりだったというのもありますけどね。

私にとって書きたい文章というものの発端はこれです。今にしてみればブログに書きたいことを書くということや、パッと思いついたアイデアを素にしてプロットを練り、さあ書こう!となった小説もそうでしょう。とにかくこいつらを私は書きたい、と。


*書きたくない文章とは

一方書きたくない文章というのも存在します。前段で読書感想文を私は書きたい文章として挙げましたが、これに全く同意できない人もいるでしょうし、いや無理無理そんなの書けないと首を左右に振るのでしょう。

読書感想文からさらに進んで、大学のレポートなどはどうでしょうか。最悪なのは「単位の取得のためだけに取った講義の課題レポートが嫌に多い」という状況でしょうか。

これは最悪ですね、自業自得の極みですが。少なからずこういったことは私の大学時代にもありましたし、これが稀なことであるとは言えないほどありふれたことなのでしょう。これらに対しては”書きたくない文章”の類と言うことが出来ますでしょうし、”書きたくない文章”ってどんなものなのというイメージを膨らますためにはちょうどいい対象でしょう。

つまるところ、自分が望んでいない、なおかつそれに対して全然全く興味もわかず、それを書くに必要な知識さえ持ち合わせていないものを書く、という状況が”書きたくない文章を書かなければならない”ということなのでしょう。

これについて「いやいや、書きたくない文章なんてないんだよ。要は書く本人の気の持ちようだよ」とは言いません。だって、書きたくないもんは書きたくないんですし、そもそも何故書きたくないかをはっきりと根源的な理由にまで迫って考察している人がいたら、その考察力を持ってして書きたくない文章など一瞬で始末出来るでしょうし。

とにかく、”理屈ではない”というカードを切ることが出来るほど、”文章を書きたくない”というのは「文章が書きたくて仕方が無い、あるいは文章を書くことがもはや自然の一部になっている」という人を除いても、広くこの世の中に存在しているのですし、それはメジャーなことなのでしょう。


*書きたくない文章のときどうする

とは言っても、書きたくないから書かないというのを続けていたら何が起こるかというのは学生時代にそれぞれ実証していることでしょうし、それが社会的にどんな意味を持つかも高校生大学生社会人と進むに連れてわかってくることでしょう。

だから書きたくない文章も書かなければならないという状況が生まれてくる。ああ、書きたくない。

自分の中でどうしても書きたくないものを書くときは以下のような決まりを作って対応しています。

①時間を区切る
②進捗を把握する
③毎日の数十分続ける

とかく、書きたくないものを書かなければならない時というのは逃避が始まります。書かないということが安心領域に入ることなのだとしたら、書くためには安心領域から出なければなりませんし、安心領域内で書くということが行われない以上は状況はなにひとつ変わらないということになります。最悪の事態ですね、これ。

ですから、上記三点の至極当たり前なことを愚直に行うことで、書きたい書きたくないと言った曖昧なものたちを置いてけぼりにした進行を目指すのです。


*感情をあげつらっても原稿は進まない

なんにせよ”書きたくないものは書きたくない”んですし、”書きたくないものを書かないでいたら何かしらの問題が発生する”のも小学校の読書感想文のときから変わっていないわけですし。書きたい文章は大いに書きまくるべきですし、書きたくない文章は書きたくない理由を盾にする前に手をつけてしまう。そもそも文章なんてものは書きたくないというひとの対応は思いつきません。

自分がコミットしていない、さらに言えばその対象が”嫌い”であるものについての文章を書かなければならないのは、実に苦しいものではありますが、やらねばならぬと腹をくくって、書き続ける仕組みを使って無心に書くしかないのでしょう。「これ書き終わったら、書きたいもの書くんだ……」というフラグを立てて、今日もキーボードを叩くわけです。

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