今日世界が終わるらしいけど、嫌になるほど晴れている


今日、世界が終わるらしい。どこかの古代文明の担当が血反吐はきながら作り上げたであろうカレンダーが、今になってこんな事態を引き起こすなんて実に面白い。世界が終わる日の朝なのに実に平和的な青空だし、襟を立てて寒さをしのぐ人たちはいつものように私の目の前を通り過ぎて行くし、当の私もいつもと変わらぬ席でいつもと変わらぬコーヒーを飲んでいるのだから呑気なもの。

何かが終わる時、その何かに対して花束とどういった手向けの言葉を贈るか、しばしの間考えてみる。人だったらわかりやすい、花束を渡して「今までありがとう。これからもどうぞお気をつけて」。では物だったらどうだろうか、事だったらどうだろうか。特に”厄介”なのが、自分自身で終わりをつけなければならず、図らずもその終わりが今まさに訪れてしまったもの。どうしようこれ。

往々にしてそれらは自分で始めたもので、最初は意気込んではいたけれど、時間的余裕からくる慢心と油断が後々になって問題化。なんとか対処はしてみるもののあまりに時間が足りずにあえなくゲームオーバー。そういった自分の責任において終わらせなければならないもの(本人の目には夢の残骸)をどう片付ければいいのか。

「よう、残念だけどおまえはもうそれ以上は何もできないんだ。じゃあな」とでも言えばいいのか、いやいや、それでは歯切れが悪い。自分で始めておきながら自分の至らなさによって終わり、その終わりに簡単にバイバイということも難しい。だって自分で始めたという事実が、その冷たい両手で完遂できなかった自分の首を絞めるようではありませんか。

この自分で”始めたもの”というのがどうにも、引っかかる。ポジティブシンキングなるもので”忘れようとも”(あえて誇張して書きますが)、自分の首に残ったアザというものは消えないのです。この残骸を失敗だとするならば、成功も、失敗も蓄積される。反芻する、失敗も蓄積される。それがどんな形で蓄積しているか知ることも出来ずに。