自分の”感受性”が自分を”ただの餌”としか思っていないかもしれない


”感受性に飼い慣らされブクブクと肥るただの餌”というなかなかショッキングな言葉を思いついたのが昨晩で、そうやって思いついたのにはそれなりの理由があるのではないかと考えているのが今朝です。

というのもこのブログであったり、Twitter(”ゆきみちゃん”という”プリティでポップな”キャラクターの隠れ蓑を使って)などでちょくちょく書いているのが”感受性との付き合い方”について。なぜこれを気にするかというと、時に自分の感受性をコントロール出来ずにそれを納める器たる自分そのものを攻撃し始めるというような人をよく見かけるからなのです。
私は心理学についても脳科学についてもなにひとつわかっていることはありませんが、誰しもその内に抱え込んで、またその扱い方について誰しも同じ方法を採らない”感受性”というものに大変興味があります。興味があるゆえに、自分自身のみならず、他の誰かの感受性についても気になってしまうのは性というもの。

時に感受性という実態のないものをイメージする時、それは恐ろしく動物的なものであるように思えます。また、その動物的というのはまさに”動物的なもうひとりの自分”とも言えるところが実に”危うい”。感受性が動物的だと考えるには私なりの理由があって、それは実に理性とは別のところにその活動の根源を持っているように思うからなのです。
理性的ではないとは言い切れませんが、意識していないと自分の理性さえも超えた影響を自分自身に与えてしまうことがある点で実に動物的だと思うのです。だって、感受性に”牙を剥かれたら”。そうやって果てて行った人が何人いるでしょうか。

自分の感受性を発揮してそれこそ創作活動や、そこまでクリエイティブなことでなくても日常的な出来事に対して考えを巡らせることがあるでしょう。そうしたときに自分のみならず、他人の言動でも「いやあ、なんだかとても感情的で煽動的だなあ」と思うことがあります。それは”ヤンデレ”とか”メンヘラ”と言った言葉で安易にパッケージングするには由々しき状態だと思っていまして、そういう言動を見ると(……この人は自らの感受性に食い潰されないだろうか、大丈夫なのだろうか)と注視してしまいます。

冒頭に書いた”感受性に飼い慣らされブクブクと肥るただの餌”というショッキングな言葉は、他人に使うにはあまりに暴言でありますから、理性に基づいて使うことはありません。ただ、こうなってしまってはいけないという戒めとして各々が心の扉に掲げていることには意味があると思うのです。
自身の感受性に何もかもを明け渡してしまって、ただ衝動的に感情的に煽動的に言葉を発していく。それというのを”芸術活動”とするには、一般的な人々はあまりに自身を自身の感受性から守る術が未発達であるのです。こんなこと誰にも教わってないし、過去に経験したにしても”甘噛み”程度のものだったかもしれないから。
しかし、いつ自分の感受性が自身の理性をぶち破って、牙を剥き、自身に向かって咆哮を一発放ったとしたら。自分が食い潰されるための餌でしかないとしたら。立ちすくむ以外に何ができましょうか。