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ジェンガの上で独り踊る

 
*はじめたこととやめたこと
始めたことがあるならばやめたこともあるわけで、やめたことのそれらは往々にして秘匿されて、こころの片隅に置かれてしまうものなのかもしれません。
ただ、自分がすべてにおいて始めたことしか頭にないのだとしたら際限なくすべてを始めてしまいそうで、時々やめたことも考えてもいいのではないかなあとも思うわけです。なにをやめてきたのか、そこにはほんのりと漂う挫折の匂いがして、こころをざわつかせ、平穏を奪うかもしれないけれども。
と前置きしておいて、当の本人はやめたこと、私がまさにやめてきたことについてちゃんと考えているのかと。思い返してみると考えていないなあ。やめた、やめつつあることの中からひとつ挙げて、自分の中で整理をつけてみたいのです。
 
*なぜ工夫するのか  
(明確に)やめつつあるのは”仕事が出来るようになるための工夫の数々”でしょうか。かなり語弊があるかもしれませんが、ここでは「出世するための」とか「偉くなるための」といったニュアンスを多分に含んでいます。
このニュアンスを多分に含んだ”仕事が出来るようになるための工夫”に自身の心身を徹底的に痛めつけるということを幸か不幸か経験してしまい、今まさに目の前にある私が従事していることに対して、こうもそれに貢献するための自分の労力を自分の精神を摩耗してまで行う必要があるのかないのかという葛藤にこころを痛めたりします。
この感覚をうまく言葉に乗せて表出させることが出来ないのですが、私が”うまく”仕事をしようとする最大のモチベーションは偉くなるためでも地位につくためでもなんでもなくて、ただ単に仕事を効率的に行えば”早く帰れる”というだけの話なのです。
 
*責務との付き合い方 
とすると、年齢を重ねるごとに”責務ある仕事”をするようになったときにそれを振るい続けるのかという話ですが、基本的な姿勢は変わらないと思います。責任あろうがなかろうが、その責任を確実に果たすうえであればなんら問題なく。
ただ、自分の能力にあった責任を負うべしという基本姿勢も譲らないところではあります。それが現実的かどうか、なおかつそれさえも蹂躙してくるような過大な責務の押し付け合いを日夜する仕事についているべきかという選択の連続に身を投じなければならないわけですが、そうしたことを考慮したって自分の心身を保護するためには私側になんらかの防衛ラインを設けておくべきです。それが巡り巡って”やめること、やめつつあること”の整理になるのだと思います。
 
*足元がジェンガ 
話がだいぶ逸れましたが、こうして吐露するには何かしらの事情や理由があるわけです。雑然とした職場で一人、大きな手帳を広げて、机を整理整頓して、パソコンのファイルも能率的管理をして、そしてかけられる言葉が「なにそれ、出世するためにやってんの?」。
さも私の足元に敷かれたこの木々がジェンガの頂上であるかのような、そんな不安定さの元、自分というものが始めたことやめたこと、そしてその理由を自分自身に問うようになってきたのです。
 
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