ほぼ日手帳の代替わりと少し言い知れぬわくわく感


ほぼ日手帳を使っていると、不思議な感覚を覚える月があります。12あるうちの1つでそういった感覚になるのですから、手帳というものはなかなか不思議だなあと思ったりします。それはもちろんのこと12月なんですけどね。ほぼ日手帳ユーザーだけに限らず、世の1月始まりの手帳を使っていると、12月というものはすでに手帳の”引き継ぎの準備”を始めていることでしょう。ほぼ日 カズンを使っていようものなら、はてどうしてくれようかと頭を悩ませる事態でもあったりします。現に今の私がそうです。

ことほぼ日手帳には前年の12月分があるのですが、助走期間なのか1日分が半分になっています。それまでがっつり1日1ページ書いていた人間が、その制約に耐えられるかというとまあ耐えられませんので、自然と切り替えは1月1日になります。その日に至るまでの期間というのは、来年分を手元に最後の12月分を使い切るという意識になります。ここが不思議なもので、どの月よりも手帳に書き込む(旧い手帳にも新しい手帳にも)ということがわくわくするのです。
よくよく考えてみれば2012年版の残りはあと1ヶ月分しかなく、次の月に戻ろうとすると2012年1月になってしまうので、ああ、この1年しか書けないのだなあと妙な実感を得たりします。そして次に思うのはその手帳(私の場合はカズン)一冊の重みが新品のそれよりも重く感じるのです。1年分のインクの上積みがそうさせているのかわかりませんが、とにかく重い。そしてそれを辿ってみると実に”生々しい”。この生々しさをこの手帳の最後の月に実感することが妙にわくわくする。ああ、よく書いてきたなあと、紙を手繰る。そしてその手帳よりも”軽い”新しい年度の手帳を手にして、自分のことを書き込んでいないがゆえに”まだ誰のものでもない”ことにちょっとした不安と、ちょっとした親しみを持って開くわけです。

そうしたことが次に控えている新品の手帳を開くことのわくわくにも繋がるわけですが、一番繋がっているのは予定を書き写したり、引継ぎたいことを”新旧の手帳を並べて開いて”転記しているときでしょう。これは1年使ったという実績をもって行うとなかなか重要な意味を持っていて、年の連続性を自覚するといいますか、”地続き感”を得られるというのは紙の手帳ならではのことなのでしょう。こうした”手間”によって何かを自覚する、特に手帳の代替わりをしていくなかで、自分というものの連続性を自覚するというのは12月に手帳を”2つ”触れることのわくわく感の正体なのでしょう。