対外的な意味を失う数値目標と書いたものへのちょっとした報い


日々一定量の文章を書くにあたって、多少なりとも意識することがあります。それこそ本分は作家ではありませんし、なおかつ同人活動においても「カーッ、2時間しか寝てないわー、カーッ」というようなこともしていないわけでして。その行為というものは実に日常的に、毎朝の温かいコーヒーのように緩やかな時間と共に存在しているのです。そんなコーヒーと同じく”当たり前のもの”となりつつあることに何を意識するのかというと、それまでの”積み重ね”というものです。

2012年の1月1日というまるでネタのようにひっそり始めたこのブログですが、まもなく1年が経つというなかでその記事数も200になろうとしています。当初の目標が300だったことを考えると実にがっかり残念また来年な数字ではありますが、そういった数値目標とは別に、では「どんなことを書いてきたのか」という視点で己を振り返る時期であると考えるのです。
200という数字にも対外的な意味はないですし、もっと言えば何百日連続更新とか、月何万PVといったことももはや自分の中では対外的な意味を失っています。牛乳瓶の蓋を集めるのと同じで、その目標を追い求めることは極めて自己の世界に埋没する行為だったりするのです。それって自分だけで楽しむには最高じゃん?と思いますし、実際に公表しない場所にはこういった対外的な意味を失った数値目標というものが記載されていたりします。それこそノートとかにね。

さてその「どんなことを書いてきたか」を振り返るぞ!と当初から予定していたので、それを行うためのひとつの数値目標としていたのが前述した記事数なのです。200記事を揃えたとして、じゃあ自分はこれまでにどんなことを書いてきたのだろうと過去記事を読み直すということが必要なのです。
なぜ必要か。方向性であったりというものを、「願望ではなく傾向からも見出す」ということ、さらには「点を繋いで新たなアイデアのストックを作るため」であります。また自身が書いてきたものが「捨て駒でないこと」をここにきて確認するためでもあります。と、恐ろしい言い方をしますが、よくよく振り返ってみると更新しなければならないという焦燥感に駆られて書き殴った「捨て駒(記事)」も確かにあります。
そうしたものを過ぎ去りし日と共に記憶の彼方、ブログのカテゴリー内に埋没させ、埃を被せてしまうというのは実に惜しいように思います。読み直しをすることで、ちょっとした感想をもらすぐらいのことをしておけば、その記事がただ単に「書いただけ」という状態にしたままなんてことは回避できるのです。うーん、言い方を難しくするとそれらに確固たる意味を与えるのがこの過去記事の振り返りでもあるのです(そんなことを考えているから、ここ半年の傾向にある”文章の塊”感が発生するわけです)。

生み出したものの生死に責任を持つというと何か壮大ですが、寒風吹き荒ぶこの師走に、温かいコーヒーを飲みながら過去記事を読み直していくということも、実に年の終わりを感じさせる恒例行事になるのではないかなと思っています。しかしまあ連続する記事の流れを振り返ってみると、思いの外、書いている内容が変わるもんですね。