もうひとりの自分

 
”もうひとりの自分をもつ”なんていうと、「ち、中二病だぁ!!!」と蜘蛛の子を散らすように読者に逃げられてしまいそうですが、この言葉あながち間違ってはなくて、そもそも自分の生活においてはとても大切なことだったと気がつくことなのであります。というのも、この”もうひとりの自分”というものをいかに優秀に”仕上げる”かが、自分の生活を大きく変えることになると最近思うのです。
 
周りくどいことはなしに何を言いたいかというと、自分の行為を行為の主体としての自分以外の誰かに評価される時、その評価を他人がする前に自分(もうひとりの自分)で客観的に行えるということなのです。周りくどいことはなしにと言いながら、相当まわりくどい言い方をしましたが、自分の行いをいかに自分で評価できるかということなのです。
 
”もうひとりの自分”という視座を得るとも言えますが、そもそもこの”もうひとりの自分”っていつ頃から現れるのでしょうか。中学二年生からでしょうか。いや、自分を評価するということをいつから行うのでしょうか。私自身遡ってみると、何だかんだで小学生まで遡れます。少年野球をしていたときですね。レギュラーになれるかなれないかというギリギリのラインにいた小学4年の自分の前に、小学6年生が3人ほど入団してきたのです。
自分にとってレギュラーになるということは、自分自身の尊厳のためでもありましたし、また休日に応援に来てくれる両親への照れであったり、ずっとベンチに居ることへの負い目であったりするわけです。中途半端なことをしていては、体格に勝る新入団の6年生(しかも3人も!)にレギュラーの座を奪われてしまいますし、なんとしてもライトというポジションは守りたかったのです。
今遡って思い出せる”もうひとりの自分”が生まれた小さな変化といえば、このときですかね。自分の試合や練習の成果を自分で評価しない限りには、家に帰ってきてどれくらい素振りをすればいいかとか、どんな練習をしたいといったことを父親に言えなかったのです。読み応えを考慮して話をちょっと”盛って”いますが、やったことには大して違いはありません。ただ、このときの自分は”もうひとりの自分”に行動を評価してもらっていたのです。
 
さて、こうして今に戻ってくるわけです。「頑張るのはおまえだけど、その頑張りを評価するのは頑張ったお前ではなく、それをじっと見ていたもうひとりのおまえだ」ということを、例の如く仕事中にオーバーヒートする頭で考えました。自分の頑張りの評価を”もうひとりの自分”の評価を蔑ろにして他人に投げているから、過度に評価されることを望んでしまうと。それでもし自分の満足の行くような評価(そもそも評価されないということも)だとしたら、それで今度は怒り始めたり、虚しくなったりするわけです。仕事をする上では自分の行為とその評価というものが辞めるまでつきまとうわけですが、行為と他人の評価がダイレクトに結びついていることがいかに自分の神経を摩耗させていたかに気がつくのです。思いつきでその存在に気がついたために考察が足りませんが、今後継続的に”もうひとりの自分”というものを考えていきたいものです。
 
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