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Evetnote、発散と収束と、収束の行方


Evernoteというものについては、過去にも幾度となく考えてきたわけですが、いよいよもって明確な切り分けが必要になってきたように思えます。では何を切り分けるのか。それは”発散させるもの”と”収束させるもの”です。

ここで私自身のこれまでの使い方を思い返してみると、ノート数という単純な蓄積だけをとっても(ゆるゆるとEvernoteというサービスを数年使って)1万にも満たないわけです。日常的にほいほいと保存していたつもりでも、世に言う「へービーユーザー」とも言えない状態でうろうろとしています。これ自体、私はなんら不都合も、またそれを苦とも思っていないわけですが、苦に思っていることがあるとすればこの”発散させるもの”と”収束させるもの”の切り分けなのです。

よくEvernoteについて言われる「なんでも保存する(しよう)」というのは発散の極みで、これを受け入れるだけの器がEvernoteにはあります。それは扱えるフォーマットの種類であったり、容量であったり、様々な外部アプリケーションとの連携であったりするわけです。増殖し続ける入口ですが、それを選択して使う私自身はEvernoteに「なんでも保存」していくことになんら抵抗はなくなりました。入口が増えれば増えるほど迷ってしまいがちですが、その入口の多さは単なる選択肢の多さの違いで、自分が何をどんな形でEvernoteに入れたいのかをちょっと考えれば、何を選択すべきか段々と見えてくるものです。こうして、Evernoteに(スピードの違いはあれ)入ってくる”何か”たちは、その様子を俯瞰して見ると、実に、方々に発散されて行く様にも見えるわけです。真っ白な空間にポコポコと情報たちが生まれて行って、拡がり積み重なり、放射状に拡がって行く様です。

こうして”発散させるもの”はその入口の多様化と、自分の興味の多角化によって難なくのびのびと行われて行くわけですが、片方の”収束させるもの”についてはそうは行きません(私の現状を考えても、到底うまく行っているとは言えません)。

それはアイデアの収束ともいえ、自由に発散する”何か”たちを分類し、また発散の方向付けをするということがどうにも苦手なのです。ノートブックやタグ付をしてみたもののうまくいかず。発散されて行くものたちに向かって、増えを吹いて注意をこちらに向け、号令をかけては進むべき方向を華麗に指示するということが、まだうまくいかないのです。発散させるものすべてにそれをする必要はなく、かといってすべて発散させ続けるのをこのまま続けて行けばいいかというとそうでもない。終わりなき発散に耐えられるほど、その行為の意味を求めないということがちょっと出来そうにないのです。この発散という行為に続くものとして収束というものがあり、その収束というものの結果、自分が満足するであろう何かしらの結論、行動、アイデアの昇華、思考の方向性などが決まって行くのでしょう。が、それを実感として持つことができずに、ひたすらに発散が続く。

こいつは、きっと、幾度となく繰り返される「Evernote使いこなし論争」とか「Evernote挫折体験」に通ずるものがあるのでしょう。つまり、ある行動に対して何かしらの結果が見えてこないと、無限に続くと思われる発散さえも億劫になり、それ自体も辞めてしまうということに。収束については、方法を輸入することは出来ますが、あくまで主体は私自身であり、その方法を使ってどんな結果を出したいかを決めるのも私なのです。うーん、Evernoteそのもので何をしているか、何が出来るかといった情報ではなく、Evernoteから離れた(Evernote でなくても出来る情報の”収束”の仕方)ところに打開のヒントがあるかもしれません。ムズカシイネ。


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