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トランスガーリーポロロッカ☆


パッと思いついた単語を適当に並べて組換えてみると、それらしく聞こえるものです。それらしく聞こえた結果、なにが起こるかというと、今度は空っぽなその言葉に意味を与えたくなるのです。対象がそもそもでっち上げである以上は、意味を与えるということもでっち上げでしかないわけですが、ことこの記事のタイトルになにか意味を与えようにも、首を傾げるしかない。なんだこれ。ヤバいぐらいにポップでキュート。

さて、考えていきたいのはこの空っぽなタイトルのことではなくて、「意味」という言葉、内容ではなく器そのものを指す言葉についてです。
何かにつけて意味を問われることが多い生活ですが、意味そのものを定義していない対象に対して、意味を与えるということがいかに難しいことか常々思うわけです。さらにいえば、じゃあ、”意味”って言葉そのものを考えなければならないのです。
”意味”とは何かを考える時、「意味あるなしに関わらず、その事象・行動は存在しているし、それに対しての結果も用意されている」ということが首をもたげます。意味のあるなしを定義することはひとつの行為であり、それは必ずしもその対象に対して何らかのアクションをするときの必須条件ではないということです。要は、意味なんか決めなくったって行動できちゃう、という当たり前の帰結。じゃあ、その「意味を与える」ってどういうことなのかと。

単に”意味”とだけ切り離してみても、じゃあその”意味”って何よと堂々巡りになることは必至です。日常的によく問われる「それって意味あるの?」に使われる”意味”という言葉も、この堂々巡りを暗に誘発しようとしているのではないかと勘繰ってしまうほどです。
これは、”そもそも空っぽな器”である言葉を持ち出して、「このお皿にはなにが乗っているのか?」と問うようなものです。”意味”という二文字そのものを考えると、「いや、空っぽだし……」となります。この例で言えば「意味を与える」とは、その空っぽな言葉である”意味”という器にどんなものを乗せるか、そのもの自体への思案なわけです。
ですから、意味という言葉に意味はなく、意味という言葉にパッケージされたものが何であるかを考えることが、「意味を与える」ということになります。

よくよく考えると、こうしたパッケージそのものを指す言葉が、多く使われているわけです。そういった言葉は使いやすいし、中身を考えなくてもそれらしいことを言っているように聞こえるもの。そうした言葉が氾濫しているのであれば、なおのこと、器への議論に巻き込まれないようすることを心がけなければならないのでしょう。結構あるものです、そういう言葉。

あ、思いついた。この記事のタイトル、「虚ろな街を闊歩する自由奔放な女の子」という意味にします。

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