憧れは大人になればなるほど短命

 
「どうしていつもいっつも、自分がやりたいことをしている人たちが作り出す円の、ギリギリ外側に自分はいるのだろう」そうつぶやいて、つぶやいて、何度も何度も来た道と行く道を見ても、いつだって私は円のギリギリ外側にいるのです。
その外側というものは円の内側にいる人たちなどによって、綺麗に整地されていて、観客席なんかもある。周囲には自分と同じような人たちがわんさかいて、円の内側にいる人たちの一挙手一投足をじっくりと見ている。
隣に座るおっさんが、あいつはダメだこいつはダメだとその隣に座るおっさんと話をしている。聞いてみればそのおっさんは、円の中にいる人たちとは何ら関係ない仕事をしていてちょっとした信条ももっていて、ただ、円の内側で行われていることに一言物申したいだけだと。
そのおっさんの話を聞き流しつつ、考える。円の外側にいる評論家になりたいわけじゃない、その芝生を踏みたいのは他ならぬ素のままの自分であり、なりたいのはその芝生を踏んでいる自分なのだと。まだ高説ぶっているおっさんに会釈をすると席を立つ。スタジアムのオーロラビジョンに映し出された自分を見ていると、なんだか居心地が悪くなったから。
 
こういうことって誰しもあるはずで、それを端的に(もはや使い古された言葉でいうと)「理想と現実のギャップ」ということになるのでしょう。しかしこの「理想と現実のギャップ」という問題は、行動とフィードバックによって解決の方向に向かうという解決案さえも使い古されており、結局自分が判断して行動出来るのかどうかまで迫っているわけです。迫っている、いや、その決断をするまでの道のりがすでに整地されていると言えばいいのでしょう。つまり、”それを判断する自分が”という問題を除いては大方、悩みに悩んだ先人たちによって整理され、整地され尽くしている問題でもあるのです。この決断をするしないという問題は、”憧れ”という動機についてだけ言えば「サッカー選手に憧れて、スタジアムでサッカー観戦する少年」と同質で、もはやそこには年齢なんてものは関係ないのかもしれません。
 
しかし、これを”やろうと思えばやれる”場所と少量のお金を手にしていると自覚した今。そこに向かって何らかの行動を起こせない自分への嫌悪感と、嫌悪感を抱いてもなおも行動しない自分への自己肯定の拠り所を探し続けるこの所業に、もはや円の外側内側という区別は必要ないのかもしれません。それはすべて虚構だと。憧れているものは幻で、そうやって考える自分も幻で、いつかそうしたことを考えなくなる瞬間が訪れて、この幻は終わると。憧れは大人になればなるほど短命だと。そう思えてしまうところに、これが世間様に向けられたメッセージではなくて、今まさに自分の憧れが崩壊し始めていることの表れなのかもしれません。
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