厭世と忌みとつまんない


厭世というのは実に甘美な行為だと、思うのです。世界の中心たる自分の脳みその中で、眼下に広がる鬱屈とした世の中を城のバルコニーから見下ろしつつ、「この世というものは」とひとりごちるわけです。それを続けていけば、自分の精神に多大なる影響を及ぼすことが出来る(なんてったって意識的には不可侵な領域にまで影響を及ぼすことが出来るのですから!)ことを考えると、実は厭世というものはポジティブな思考よりも強烈なパワーを持っているのかもしれません。だからと言ってそれを推奨するわけではありませんけどね。

さて、世というものが世界とか日本とか、内政とか外交とか、政治とか政治家とかそう言った”政治的なものをひっくるめたなにか”を示すのであれば、「なるほど好きにしろうぃ!」と言うことが出来るのです。ことこれが自分の身近な世間に対してだと「待て待て、いまミュートなりリムーブなりするからちょっと待て」と対応しないといけないから、ちょっと厄介。前述したように、本人がそれを自覚しているかしていないかは別として文章として表出してしまっている、なおかつそれを読んでしまうことが出来るというのは読み手からしたらそこに選択という判断をしなければならない状況になるのです。SNSなどのタイムラインの様に、半ば強制的に読ませることが出来るような仕組みをもっていたらなおさらです。

短文だろうと長文だろうと、例えば「世の中にはこれこれこういうことがあって、なんか最近そういうの流行ってるよね。まっ、そういうの私は嫌いだけどね(ボソッ)」という展開をみると、「なるほど! その話の持って行き方はつまらんぞうぃ!」となるわけです。何が嫌いかなんて私にとってみればどうでもいいわけですが、どうでもいいことを前提に読んでみるけど大概「つ……つまらん……」と戻るボタンを押すのです。”つまらない”んです、とにかく。その人の感情を考えていないとか、その論理が破綻しているとか言いぷりが嫌いとかそういうことじゃなくて、ただ単純につまらない文章が多いと感じます。厭世や忌むということは、かなり強烈なエネルギーを持ちます。そこに晴れやかな何かを見出すことはないでしょうし、書き出しから「これはもしかして……」と読んでる側は身構えるわけです。読んだ自分が晴れやかな何かを得ることは想定されないのですから(そこでその想定を覆すような展開になっていたら天晴れだと思うのですが)。その強烈なエネルギーを吐き出すにしては、なんとも味気ないではないか。それを華麗に吐き出す技量を得ることが出来たとしたら、その技量そのものが何かを解決に導くかもしれません。

ここまで書いてきた厭世や忌みという感情を文章に乗せるというのは、少なからず読んでもらいたいという願望があることは否定できないでしょう。そこで読まれたいと少しでも願うのなら、その文章がいかにして面白く(興味という意味で)読まれるかということに、頭を使うことも必要なのではないかと思うております。当の本人にしてみたらそんなことまで考えている余裕はないんだと言われてしまうと、しゅんとしてしまいますが。


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