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期待にこたえようとするとたちまち書けなくなる

 

なにか文章を書くとき、特にこのブログというものを書くときに「これは厄介だなあ」と思うことが色々あるわけですが、なかでも厄介の全国大会に出場できるほど厄介なものが「期待にこたえる」ということでしょうか。

期待。べつにこんなブログ誰もみてねーよぅ!という開き直りの下で自分の自由に書いてしまえればそれでいいのですが、こと"誰かのために"という言葉が先行してしまうとこれまた厄介です。誰ともわからない誰かのために何か書かなければならなくて、その何かが誰ともわからない誰かを満足させるものでなければならないと思ってしまったが最後、文章というものは期待に応えるべくして書かれなければならないという制約を生みだしてしまいます、それを自らで。

ターゲットを絞って書くという方針は戦略です、ターゲットの期待にこたえるべくして書くというのは心持ちです。この考え方でいくとターゲットを絞って書くことと期待にこたえるこたえないは別のものであるということになります。そうするとターゲットを絞って書くけれど、そのターゲットの期待にこたえるべくして書いてはいないということも出来るのです。しかしこれにちょっとでも違和感を覚えるのであれば、そこに見いだされる自身の誠実さをより強く認識した方が良いと思われます。

そもそも期待ってなんだと。「この人はこういうことを書いてきたわけだから、こういうことは書かないだろうなあ」と読み手が思うことと、「こういうことを書いていくつもりだから、こういうことは書かない」という書き手のブランディングが一致すればそれは期待にこたえるということになりますでしょう。しかし、往々にしてそれは空気でしかありません。定まっていないので"期待(仮)"としましょうか。"期待(仮)"が可視化できない以上は、前述したターゲットの期待にこたえるべくして書くということは心持ち以上の意味を持たないのでしょう("期待"とは何なのかが明確に出来ていない以上は)。心持ちの問題であり、それは決して義務ではないとまず捉えておきましょう。誰でもなく自分が課した制約でしかないということ。期待(自分で考えた、他人が発言した、全体の空気が生み出したそれぞれの期待)にこたえるためには、"期待"がなんであるか自覚できるまでは"期待(仮)"にこたえようとしないことでしょう。

 

話変わりまして、当ブログの右側にあります、ブログ説明にはなんと書かれていますでしょうか。曖昧であり緩そうに見えるけれど危機感を生み出しかねんこの言葉によって、自分の立場を確固たるものにするときに非常に困ることになるかもしれない。かもというのは、それさえ変に意識しなければこんなに便利な言葉はないということなのですけどね。言わば社説のようなブログになりたいなあ、と自分に言い聞かせるわけです。