”イメージを膨らまそう”とするときのイメージ

 

何かを考えよう、何かについてイメージを膨らまそうとするとき、私の頭の中では何が起こっているのか。何にしても、それを解明することが今後の生活に重大な意味を持っているのなら、今まさに解明したいと思うのですが、今のところその必要はないようなのでそれはそれとして置いておこうと思います。終わり。Fin.

 

と、締めたいところですが、なんとも捉えづらいことを考え出してしまったのでもう少し考えてみようと思います。確かに自分が”考えるという行為そのものについて考える”ことが(”考える”という行為はいかにして行われるのかとか)あまりないのが原因しているようにも思えるのですが、それについて深く考えなくてもそれを実施できてしまうということがなかなかに厄介なのかもしれないのです。厄介とはいえささくれぐらい可愛いもんで。悪さをする、自分の精神を脅かすような難題ではないことは確かです。

どういう世界観でこの行為を行っているのかを考えておくと、この手が届かない結論への没入に対する導入になるかもしれません。この”イメージを膨らまそう”としているときの自分を、想像の世界に置き換えるなら釣りだと思うのです。海釣りでもなく、川釣りでもなく。そこは”湖”なのです。しかも、水墨画の様な。

 

霧がかった森を抜けると、目の前には湖が広がっています。しかしそこも霧が辺りを覆っていて、遠くを見ようとしても、阻まれます。白んだ視界の先にはかろうじて湖の輪郭を思わせる曲線があり、岩場や大きくせり出した木々があります。波立たぬ湖面は影を切り取るようにその淵を映し出しているのです。具合のいい岩に腰掛け、手に持った釣竿の先をいざ湖に向けようとするとあれと気がつくのです。手にした釣竿が、筆で一筆した様な線なのです。先は止めることなく書き抜いた様な鋭さがあるけれども、折れそうにもない軸の太さがあり、その色合いはまさに墨で、凛とした佇まいの一本の線なのです。これはこれはと思ってみると、周囲もまるで水墨画の様なのです。ただ、自分の体は色味を持っていて日常のそれと変わらない、自分以外がすべてに墨と墨が塗られていない部分の白さで表現された世界なのです。しかしこの世界に身を置いていることに対して恐怖は全くなく、水墨画を観る時のそれと変わらぬ心の静けさを持っているのです。時折、静寂を裂く鳥の声が響いたかと思うと、どこぞで魚が跳ねる音も聞こえます。釣りにきたという目的をはたと思い出し、するりと糸を垂らす。

 

”イメージを膨らまそう”とするときのイメージはこんな感じです。この世界観を持っているがために、ある種、想像をするというものは環境に左右されてしまうのかなと思うのです。例えば、喧騒の中でこの世界に没入することができるかどうか。うーん、難しいですね。出来るにしても、あまり深いところまで潜れなさそうですし、このイメージでいうならば、水面近くを泳いでいる魚はそうそういないのです。

自分の頭の中で行うことを、イメージで捉える。その世界は今日も平穏で、誰かが踏み込むことのない世界。ただ、その世界に入るためには、外界との付き合い方を考えなければならない。なぜって、それは頭で生み出されたもので、それを生み出す頭は常に外界との接触を行っているのですから。内側からその世界に圧力がかかるかもしれない。嗚呼、仙人になりたい。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。