読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

強迫性アウトプット症候群

 

世はまさに戦国時代。群雄割拠の日本において、「やーやー我こそはアウトプットの雄なり」と名乗りを上げる者たち。敵陣に攻め入るが如く怒涛の勢いで更新されるブログその様まさに戦。鳴り響く法螺貝。まさに戦。

待て待て、ハイ、ちょっと待てー。ちょっと待て。今回、「アウトプットを堪える」ということについてちょっと考えてみようかと思います。考える前にひとつ、「要は人それぞれなんだ」と復唱してから考えようと思います。

最近思うところあって、「アウトプットを堪える」ということがあります。「なにかアウトプットしなきゃ!」と感じて震える指をキーボードに置いた時、”ちょっと待て”と心の中で叫ぶのです。”ちょっと待て。それはアウトプットしたいのかそれとも追われてアウトプットしようとしているのかどっちだ”、と。

周りを見渡せば、「アウトプットだ」「とにかくアウトプットだ」という論調ばかりで、「そのアウトプット、ちょっと待て」と諭すひとが少ないなあと思ってはいます。かくいう私はというと、アウトプット至上主義とまでは行きませんが、アウトプットの重要性、さらにいえばアウトプットの量というものの価値については重々理解しているつもりでいます。アウトプットは大事です。それは表現の始まりであり、アウトプットしないと表出しませんから。だとしたら「アウトプットを堪える」という発想はこの発言と矛盾するではないかと。「堪えてないでアウトプットしろよ」と。

ただここで注目したいのは、この「堪えてないでアウトプットしろよ」という考え方。それに「いやいや、ちょっと待て」と待ったをかけるのが「アウトプットを堪える」ということなのです。これじゃあ関係がよくわからないですね。

最近思うところあって、と書きだしたのには理由がありまして、「インプットもアウトプットも、ある地点まで来ると今度は強迫観念に襲われることがある」ということを感じたからです。手近なところでいえば、ブログでしょうか(私にとってのもう一つのアウトプットでもある小説は、どうもこの話は適用されないかもしれないので外します)。

アウトプットと強迫観念ということで考えれば、まさに上記の「堪えてないでアウトプットしろよ」。これがなんとも、理不尽な要求をしてくる”先輩”のように思えてしまうのです。

わかるんだけど、たくさんアウトプットすることの重要性は確かにわかるんだけど、どうにもその全てを”鵜呑み”にして納得できてはいないのです。

なぜ、アウトプットという言葉は形骸化していくのだろうと。なぜ「いいからアウトプットしろよ」と言っているように聞こえてしまうのか。私の耳にそういったフィルタがかかっているのか。

アウトプットを堪えて、そのアウトプットするもの自体を精査する、必要とあらばインプットに立ち返る。この基盤があってこそ、良質なアウトプットというものが成し得るのではないか、と。インプットに起因したアウトプットというものはとても難しいことだったはずではないか、と。多感な時にこのことを考えていたら、熱を出していたと思います。

目標達成のためにはアウトプットが必要。確かにそう。しかしアウトプットの自転車操業になってしまっては、消耗戦になる。数は増えるが、増えれば増えるほどひとつひとつが価値を失う可能性もあるかもしれない。困った。かもしれないなどと言ってしまっては、可能性がないかもしれないからいいじゃないかという話になってしまう。どうしよう。

ただ、半ば自己矛盾に陥りそうな危うい心理状況のなかで、このアウトプットをしていくということについて、ひとつの仮説を立てています。数は自分を不安にしても、文量は裏切らないのではないか、と。そこから削る技術を身につければ、思うようになっていくのではないかと。こういった仮説に従ってまずはこのブログ、1記事1,500文字以上という制限をかけていたりします(そして時々それを守っていなかったりもします)。これが絶対的な解答だとは全くもって考えていませんし、これが将来的に良質なアウトプットに結びつくかもわかりません。

望むらくは、これがアウトプットの量の下限値を徐々に引き上げていき、私にとっての普通が一際高いところに置かれているという状況になること。そうすればこんな「アウトプットを堪える」とか「インプットが必要なんじゃないか」とか、木を見て森を見ずなんてことを考えないで済むのかも知れません。わかりません、私にはまだわかりません。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。

広告を非表示にする