思考することのわかりづらさ

 

時に思考というものは目に見える何をも生み出さず、時に頭の中にあるAというものを、”ものすごく複雑な機械”をつかってそこからあそこに移した”だけ”ということも起こります。ここにおいて甚だ疑問であるのは、じゃあどうして自分たちは思考なんぞというものをしなければならないのかということ。何のために考えるのよ、と。

 

【雑記】思考と行動は兄弟 - なんかカラフルな生活

 

 

 

 

話はそもそもなんでこんなことを考えねばならないのか、というところから始まります。

ここにAという人とBという人がいて、ふたつ用意された椅子に座ってもらって、まじまじとその二人をみる。そしてその後に、「AとBは何をしていましたか?」と問われたとすると「ハイ。座ってこちらを見ていました」としか言うことが出来ない。AとBは表面上、座ってこちらを見ていただけですが、実はAもBも思考していたのです、なんて言われたところで「はあ、そうですか」と気のない返事をするしかありません。こんなことを言わずとも、思考するということは見た目からはわかりづらいのです(腕を組んでしかめっ面でいたら「なにか考え事をしているのかな」とも思ってしまいますが)。

このしていることのわかりづらさが、巡り巡って自分が何をしているかの定義のしづらさに繋がっていたりしないものかしら。そうだとすると、自分が思考することって何なんだろうなあと、堂々巡りをしてしまうわけです。

しかしこの思考する自分について考えようとして、自分が何をしているのかよくわからないという不確定さに揺れたとしたら、その解消方法は限られてきます。思考するという行動そのものの分かりづらさに悶々とするよりも、その行動の結果を明確にしていけばいいのではないかと。定義が曖昧な行動から明確な結果というものが生まれるのかも果たして疑問ですが、何のことはない、思考したことの結果をその思考によって生み出されたもの以外に残しておけばいいのです。

どういうことかというと、思考することによって生まれたあれやこれは、その混沌とした思考をそのまま表していることがあります。後々になってこれを見たところで、再現性が低かったりすると、前述した何したのかよく分からないという状況になります。そうすると、そのときはものすごく一生懸命にぐるぐると頭をこねくりまわしたのに、後々になってみたらそのエネルギーに見合わない微少な結果しか残っていなかったということになってしまう。実に惜しい。思考の結果は思考の過程と同じところに置いたままにしない、その思考の結果を別に書くなりしておくことで、自分の「思考することの不明確さ」を回避することに役立っているのです。

思考するという定義の曖昧な行動に不安を感じないようにするには、結果を別所に置いておく、明確な形で残しておくということも必要になってくるのです。いやしかし、まだ定義が曖昧な行動から明確な結果というものが生まれるのかという問いに答えることが出来ていない。と、考えたところでここにここまでの思考の結果を置いておきます。まさに実践であります。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。

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