「役に立つ」と「役に立たない」

 

やれやれ。こうして書き始めたはいいものの、何を書いてどう書き終えるのかということを何一つ考えずに、指が勝手に動いているのです。これは危険だ。収集がつかなくなって、1,000文字先で起こるだろうことが3行目にして手に取るようにわかる。

 

”役に立つ”、”役に立たない”という二極について考えることは、なかなかどうして止められないのか。その二極には溜まりすぎた含蓄と、捌ききれない思考が溢れ出ていてもうどっちかひとつなんて言いようもないというのに。と、ふと考えたりしますが、深く考えずもこれはとてもむずかしい問題であることに気が付きます。難しい問題であるがゆえに、あまり深く考えすぎると何も出来なくなってしまうというのが常ですが、ことこれからお話する問題について難しく考える前に一太刀入れてしまおうというのです。

 

何の話かというと「読書」についてです。「役に立つ読書」と「役に立たない読書」というものが、妙にその存在感を示していることがたまにあって、それについて何か自分の指針というものを持てないものかなあと常々考えています。結論から言うと、私を支えているものは「役に立たない読書」で私を守っているものは「役に立つ読書」なのかなあと考えるわけです。この漠然とした問いを明確にすることに今でも苦慮してますし、苦慮したところで壮大な自己満足に終わったところを思うに、なかなか低燃費な生き方の出来ない人間だなあとも考えてしまうわけです。極論を言ってしまえば「読書は読書だろ」ということなのですが、前述したように、どうにも「読書」というものを隔てている何か壁のようなものがあると。うむむ。

 

「読書は読書だ」という大きな枠を無視して「役に立つか、立たないか」という線引きをしようとする。そうすると「役に立つ読書」ってなんだ、「役に立たない読書」ってなんだと考えたとき、一種の不快感が自分の心に影を落とすわけです。読書ってそんなことではない、と。

 

どうにも回りくどい書き方をして、さも核心に近づかず遠ざからずゆっくりと周回するようですが、この核心に触れてしまうと禁忌に触れるようで慎重にもなっているということがおわかりいただけていれば幸いです。なぜそんな回りくどいことをしているかというと、この話は実に個々人の主観が入り交じって正解なんてものが存在しないようにも思える問題だからです。いい加減にしないと話がどんどん回りくどくなっていきますし、近年のライトノベルの如き自問系主人公の一人問答よろしく終わりのない消費が始まってしまいます。やれやれ。

 

「役に立つか立たないか」以外の評価軸、期待値の具合を持ってして本を読むということをどれだけしているのだろうかと考えた時、それが果たしていくつあるかという不安が頭をもたげるのです。いやいや、数は問題ではないよと。役に立つかどうかは向けるべき対象があるわけであって、遍く本に対して使える言葉ではないということが、最近の私の心にある考えです。さらに周りくどい言い方をし始めましたね。なんというか、これだけダラダラと書いてきて核心への道から外れようとしているのは、ともすればこうして書き進んでいっても、なにひとつ回答なんて得られなくって、なにひとつ核心に触れることなんてないんじゃないかという不安もあるわけです。

 

不安だ、やめよう。やめた。こうして「役に立つ読書」「役に立たない読書」なんてものを考えようとしている時点で、役に立たない側に起とうとして役に立つ側を糾弾しようとしているのかもしれないから。いやいや、そうではない。「役に立つ、立たない」はそれが役に立つべくして生み出された本であってから始まる問答であって、純真無垢な、読むべき人のもとに嬉々として舞い込んでくる小説なるものに「役に立つか立たないか」なんてものを考えるなんて、ちゃんちゃらおかしい話なんだ。やれやれ。

 

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