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気づいたら習慣化しているタイプ

 

半年前に書いた記事をふと読み返してみると、あ、これ習慣化してんじゃんと思うことがあります。

毎日10分間の時間を作り、その時間中は徹底的に集中してあるひとつのことを行う、という趣旨の記事を書きました。半年前のことですし、これを書いた衝動というのも「なんかうまく行ってる!(気がする)」というもので、取り立ててこの記事で言わんとしていることが最重要であるわけではありません。ただ、半年後のいま思い返してみるとしぶとくこの習慣が続いているのです。

 

能動的10分間 - なんかカラフルな生活

 

 

 

 

習慣が”しぶとく”続いているという感覚を得るためには、それこそ”しぶとく”その習慣を続けなければならないわけです。しかし、よく言われるような”習慣化のメソッド”みたいなものをあまり意識しなくても、気がついたら続いているということもあり得るのだとこの件については考えています。本当にもう、何も意識していなかったのです。

とはいえ、これを一日のどの時間で(私の場合、その多くは朝ですが)行うかということを考えるだけであっても”続けること”を意識しているということになりますので、一概に”何も意識していなかった”とは言えません。”何も意識していなかった”の言い方を変えるとするならば、”続けることに肩肘張らなかった”と言えるでしょう。

私にとってこの習慣がなぜ肩肘張ったものではなかったかと言いますと、この習慣を続けることによって”目に見える成果”を得るということを想定していなかったからなのです。実際、この習慣(一定の時間を確実に設けるという)によって何か自分のなかに、確固たる”成長の証”というようなものを得た確証はないのです。さらに言えば肉体的な変化も精神的な変化も空気を握るようなもので。目に見えたものといえば使用済みモレスキンであり、「そりゃ毎日毎日モレスキンに書き込みをするわけだから、モレスキンの使用ペースが上がるよね」と呟きながら片付ける”思考の山”だったりするわけです。

そうすると、「じゃあなぜその習慣を続けているの?」という疑問に当たります。何かを目的にして何かは習慣化されていくのではないのか、と。この時間を設けること自体は、それを習慣化することが目的なのではなく、その時間で「思考の整理をする」という内容が目的なのです。かなり大雑把な定義で、毎日毎日行なっているわけですが、用意した枠(今となっては習慣化された10分間)が問題なのではなく、その枠が非常に使い勝手が良かったというだけの話なのでしょう。明日やめようと思えばやめられますし、20分にしようとすれば20分にもなるでしょう。ただ、そうはしても「思考の整理をする」ということは必ず形を変えて行われるわけであって、自身が意識的無意識的に欲している行いを収めるにちょうどいい枠がこれ(能動的10分間)だったのだと思うわけです。

気合を入れて習慣化する方法と、必要なことに枠組みを与えて続けやすくする方法と……自分のやりたいことを続ける方法というのは、気合や精神論、”ハートマン軍曹”を用意しないといけないというわけではどうにもなさそうなのです。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。 

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