理解と納得は別物

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photo credit: Venessa Miemis via photopin cc

 

「理解と納得は別物だ」と私が通っていた予備校の講師が言っていたことを今でも思い出します。この言葉、当時は「なるほど!」と半ば脊髄反射のように理解していたのですが、いまゆっくりと考えてみると「なるほど確かに」と納得することが出来ます。

「理解と納得は別物だ」という言葉について初めて聞いてなるほどと合点がゆけばいいのですが、なかなか身を持って納得するというのは難しいことかと思います。ただこの言葉には、この言葉の表面にある教訓めいた意味合いよりも、その裏側にあるものが大事であったりします。何でしょうか。

自身の生活を振り返ってみると、誰か何かにコミットメントする、関わりを持つということの多さに気付くときがあります。なにも友達100人いるひとじゃないにしても、職場、学校、TwitterなどのSNS、また作業ノルマややりたいこと……そうした自分が関わることになるモノというのは、数え上げると意外と多いなということに気付くのです。

さてそうすると、それらの関わりから少なからず生まれる軋轢というものもあります。これほど関わりの多い生活では、回避出来はしないでしょう。例えばSNSでどうにも腑に落ちないことを言われた時(さらに言えば、腑に落ちないような発言をしているひとを”たまたま”見かけたとき)、例えば電車内で不快な行動をしているひとを”たまたま”見かけたとき、またこの「理解と納得」の話に近づけるのであれば理解できないようなことを読んだときなどでしょうか。こうした、関わりが増えたことによって遭遇する可能性が高くなってしまった「理解不能なこと」に対するひとつの考え方が先の「理解と納得は別物だ」ということなのです。

「理解不能なことは理解できないんだからそれ以上考えようがないじゃないか」というのも頷けます。しかし、その予備校講師はこのように続けました。「理解をすることは、知性あるものとして最低限の振る舞い。しかし納得は別。納得することは自分をそれにそのまま明け渡すことだから」と。どんなに理解不能だと思えることにもまず理解を示すということは、もはや自身が世の中のありとあらゆる事象に対して紳士的に振る舞うことが出来るかということになります。そもそも理解と納得を切り離して考えるのであれば、理解の段階で切り捨ててしまうのは、この世の中の事象、特に”裏があるもの”、それこそ「目の前にいるひとがどんなことを考えてそんな発言をしたのか」という推測の力さえ切り捨ててしまうことになるのです。これはもったいない。万物への理解は、知性の幅を広げると考えます(ただ例えばあからさまに非人道的なことなどに、理解を示そう、理解を示そうと慣れないうちに無理をするのはまた別のストレスがあります)。

しかし、そもそも何でもかんでも理解を示せるほど私達人間というものはうまく出来ていません。出来ていないからこそ、イライラしたり苦しんだりするわけです。理解と納得を分けた理由はここにあります。万物への理解が自身の理性の幅を広げるならば、納得はその理解の選別をするわけです。「理解もするし納得もする」「理解はするけど納得はしない」ここに、自身を理解したことに委ねるか委ねないかが現れています。前述したように関わりが増えるとどうにも虫酸が走るぜと吐き捨てたくなるようなことも出てきます。理解と納得がセットになっていると、「拒絶するか受け入れるか」という1か0かの判断を、すべてのことにしていくことになってしまいかねません。受け入れるのもエネルギーを使いますし、拒絶すること、さらには拒絶し続けることにはさらにエネルギーを使います。こうしたことを関わりが今後より一層増えていく中で続けていては、きっと身がもたないでしょう。私は身がもちませんでした。

だからこそ、「理解と納得は別物だ」という考えに行き着くわけです。「理解はする、それは自分が多くのことと関わっていくなかでしっかりと判断ができるようになるために。ただ納得をするかどうかは自分が決める、それは自分の心はすべてのことをダイレクトに受け入れるか切り捨てるか決めることをし続けるには耐えられないから」そう考えた時以来、自分を取り囲む関わりの波をだんだんと振り分けることが出来るようになってきたのです。

ひどく抽象的な話になってしまっているかもしれません。このことに対して実験をしていただきたいのは、まず理解をしてみる。そして納得するかしないかを決める、ということ。これ、周りを見渡してみると応用できることたくさんありますよ。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。 

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