”代替が利かない”に潜む影

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photo credit: Shanghai Daddy via photopin cc

 

”代替の利かない人”と、”代わりがいない人”って何だろう。

慌ただしく職場のフロアを走り回る人々を見て、にべもなく思ったりします。キーボードには指を置いたまま、目だけで追います。

よく”代替の利かない人間になろう!”という言葉を聞きます。それはデコボコを平坦化するオンリーワン思想ではなく、得意なことでひとつ抜きん出ることを勧める言葉であることもわかっています。ただその”代替”という言葉の定義が、自身が身を置く職場環境、強いては自身と似たような環境に身をおくすべての人において、ぼやけてしまっているように感じるのです。そう、”代替”ってなんだろうと。

例えば私がこの職場で”代替の利かないひと”になったとして、その後の自分はどのような働き方をしているのだろうかと想像します。そうですね……まず「知識の先鋭化」だと思っていますのでそれが達成されたらきっと、周囲から私が持つ知識を頼って業務上の質問が来ることでしょう。

また、知識を持っているがゆえに決定権も持つことになるでしょう。数名いる同年代の同期からしたら(もし自分がもうひとりいるとしたらその目線から)、頭ひとつ抜きん出ているように思えます。それはもちろん、同年代の同期とは”代替の利かないひと”でもありますし、持っているその知識・経験・才覚が、上の年代にも下の年代にも稀であるとするならば、それもまた”代替の利かないひと”になっているということなのでしょう。

しかし、実際問題として、私が”代替の利かないひと”であるがゆえに、周囲の依存度と私の積極的な知識のシェアがない限りには、”代替の利かない”がそのまま”代えを作ることが出来ない”ということになってしまうのではないかと。フロアを慌ただしく走り回るひとをみてにべもなく思っていたのはこのことです。

例えば、”代替の利かないひと”というのが姿形を変え”このひとがいないと何も動かないし、このひとがいないと何も決められないから”などと周囲が総ぶら下がりになってしまった。そうすると、”代替の利かないひとになろう!”という言葉が本来持っているはずの、情熱や心に火を灯す推進力を失わせてしまうのではないかと。”代替の利かないひと”になりたかったけど、いつの間にかどこにも行く事ができない鎖で繋がれてしまったと。なんとも本末転倒なことに。「○○ならあいつだな」と専門性を買われて「代わりがいない」と言われているのか、はたまた「あいつしか出来ないからあいつに頼むしかない」と消極的選択の末の「代わりがいない」なのか。

”代替の利かないひと”になることと同時に、代替の利かないひとであり続けるために””代替を作る”行動も頭に入れないといけないのではないはないでしょうか。”代替の利かないひとになろう!”は力と希望に満ちた言葉です。しかし、その手綱はいとも簡単に手から離れてしまう。自由を代償に鎖に繋がる理由などありません。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。 

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