怖いなら自分の心に任せない

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photo credit: houltmac via photopin cc

 

「キミの机は本当に紙がないねえ」と言われます。そういう言葉をかけられて自分の机を眺めた後、ふと周囲を見るとなるほど確かに紙がないと思うのです。

写真を撮ってお見せすることが出来ないので、あくまで想像で補っていただきたいのですが、”テトリス”でいうところの”常に縦4つのブロックが落ち続けている状態”とでも言いましょうか。とにかく溜まらないのです、紙が。

これは本当に自分自身が徹底して仕組み化したおかげなのかなとも思うのですが、私のように”紙を溜めない仕組みや整理法”をうんうんと考えて運用している人のほうが稀なのだと私の職場を見ても思うわけです。

とすると、紙が溜まっていくひとの心理ってどんなんだろうなと考えたりします。

その一枚一枚に重要な意味があって、その一枚一枚が必ず自身の机の上になければならない、引き出しの中にいなければならない理由があるというのなら、それはもう恐れいりましたと頭を下げる次第です。しかしどうもそれは少数も少数、極めて少数なのだと。一枚一枚に重要な意味などなくて、ではなぜそこに居続けるのか。

どこにいっても私の周囲には”溜める人”が多く、一度に限らずなんども訊いたことがあります「それ必要なの?」と。そうすると返ってくる答えは決まっていて「いつか使うかもしれないから」。口の動きを察して「「いつか使うかもしれないから」」と被せることも出来そうなくらい、この言葉を聞いて来ました。そこで「じゃあ、あのときのあの資料あります?」と問いかけると、「あー、えーっとちょっと待って。この辺に……」と言いながら紙の山をひっくり返してはゴソゴソとやるわけです。大抵見つからなくて、「やれやれ」。

「いつか使うかもしれないから」、本当に使うのでしょうか。これに対する説得としてよく言われることが「いつかなんて絶対来ない」。しかし、それも本当なのでしょうか。「いつかがこないなんて誰が決めた」と。事実、来てしまったいつかというのもある。

「いつか使うかもしれない」「いつかなんて来ない」平行線をたどる2つの主張に板挟みになりながらも、それでもせっせと紙を片付ける私。そういう水かけが繰り広げられるなかで、手に入れたのは耳栓。両耳から入ってくる罵声を防いでせっせと紙を片付ける。

「いつかが来るか来ないかよりも、いつか来てもいいようにすればいいわけだし」そう呟きながら整理をし、判断基準によって捨てるとした紙を捨てていくわけです。

捨てられない恐怖があるのなら、恐怖を払拭する仕組みを作ればいい。自分の感情感性直感に任せない判断基準を設けて、システマチックに処理をしていけばいい。会社にいる間に生まれる紙に「思い入れ」なんてものがくっつくことなんて稀なんだから、そう思うわけです。頑張って頑張って頑張り抜いて作った発表資料などは別でしょう。それはかけがえのないものかもしれません。ただ、それ以外はもはや、わざわざ感情にご足労願う前に切って捨てるわ!とひとりごちる。いつかが怖いなら自分の心に任せない、仕組みに任せる。

紙の話をしましたが、これだけに限らず、漠然とした恐怖に打ち勝つ方法って意外と心を頼らなかったりするのです。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。

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