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RSS購読に大鉈を振るう。もっと”読む”価値を高めること。

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photo credit: susivinh via photopin cc

 

RSS購読をすべて止め、対象を20個に選びなおしました。全部です、一気に消しました。

唐突ですがRSSをひとつのリーダーにまとめあげるというのは、言わば「編集者私」なわけで、その読者たる私が読みづらさを感じるようでは全く笑えないわけです。RSSリーダーはありとあらゆるものを詰め込んだ電話帳ではありません。

世には数百という情報源を素早く参照するテクニックというものがあったりするわけですし、”情報はたくさん得ましょう””様々な価値観と出会いましょう”という時流が、新しいデバイスの登場によってどんどん(「勝手に」と声を小さく付け足して)高まっていく中でのこの”情報を得ない”という逆行。RSSの購読を一気に絞ったのです。ただ、ここで「私が選んだおすすめブログ20選」とか「最高のRSSリーダーはこれ!」といったことは決してしません。そうではなくて、なぜRSSの購読数は膨張し、それを20個に絞ったのかということをお話ししたいのです。

 

RSS購読数を一気に減らそうと考えたきっかけですが、これは私の生活に依るところが大きいのです。私には時間もないし、そんな中で読むと言うことの焦燥感にさいなまれる必要はないと。時間がないなんて嘘だ、時間は工夫次第で作ることが云々……という話はここでは置いといて、そもそも毎朝大量の新着RSSの消化に時間をかけることに大した意義を見いだせなくなってしまったのです。誰しも大した意義を持って行っている訳ではありませんし、大した意義というのは去りゆくものの恨み言のようにも聞こえます。ただ結局のところ、「情報収集」という悪魔のささやきに、集中すべき時間を奪われていただけだったと気付いたのです。

わかりにくいですね、実にわかりにくい。それが悪魔かどうかは別として、この「情報収集」という言葉はその具体的な実施方法を霞ませるほどに、”全能感”に満ち満ちているのです。「ジョウホウシュウシュウをすれば、いつまでも充足しない何かしたいけど何したらいいかわかんない空っぽな自分を満たすことができるぜ!」と、iPhone片手に何百というブログの更新情報をさらいまくる。そうして北極海に落としたウイスキーボトルの如く希釈された情報を毎日毎日飲み込んで満足するのかと。いやはや、膨張し続けるものに食らいつくのは疲れるだけです。そんなことを考えているうちに、ふと、前述したRSSの全購読解除を思い立ったわけです。

 

薄まったウイスキーでも舌に残る、しっかりとその味を感じさせる情報というのもこの大海の中に五万とあるもので、自身が関わることの出来たそういった情報の発信源は最新を追っていきたいと思うもの。毎朝チェックするRSSをゼロにしたはいいけれど、それでもなおそうした読みたいものがあるともなると、再追加しなければなりません。しかしここで何の制約もなく始めてしまうと、あれもこれもと続けて気づいたら元の水準まで戻っていたなんてことになりかねません。そこで20個なのです。20という数字は、私自身が思うに少なすぎず多すぎずを良い塩梅で表しています。「それでは少ない。もっと多くの情報に触れないと考えが偏るし、時代についていけなくなる」いやいや、それが多いか少ないかではなく私にとってはまさに情報の選抜という名にふさわしい数字なのです。

ただそうは言っても、100以上あったものを一気に20まで減らすのですから、なかなか時間がかかりました。大なたを振るったところも、ためらったところもあります。例えば、旬に流されているなあと思うもの。大抵同時期に他でも同じようなことを書いていますし、そういったことはTwitterを見ればなにかしら目に留まる。どこを見渡しても「iPhone5キター!」「iPhone5キター!」「iPhone5キター!」な状態、つまり他とバッチングしやすいネタだけを追っている情報源は外しました。そうすると、購読数が一気に減ったのです。

ここで注意したいのは、だからと言って書き手がそれを書く必要がないわけではないと言うことです。書き手が選定するネタと読み手が剪定する情報というのは、それぞれが主体的に選ぶわけであって、読み手が読むものを選ぶからと言って書き手はそれに対して萎縮する必要などないということです。その逆も然り。つまり、ここで読み手という立場一点に考えの中心を置くならば、”書く””書かない”が尊重されるのなら、”読む”ということと同じく”読まない”という選択も尊重して然るべきことだということです。

 

さて、またもや当たり前の結論に至ってしまいました。

この読まないという選択をする事が、私の朝の負担をだいぶ減らしました。読まなくても、情報収集しなくても、自分で選んだ情報源をしっかりと目を通せば私の知的好奇心は満たされる。読まないことを明確に選択することで、読むことにより一層の集中力と興味を投下できるわけです。

この20という数字がすべての人の絶対的な基準となる根拠なんてものはありません。ただ「情報収集をしないことがなんか怖い」という恐怖心、「情報収集をしていないことが、自分の人生のクォリティーを下げている」なんていう焦燥感があるとしたら、そんなうっすいウイスキー飲んでんなよ!とグラスをテーブル叩きつけ私は叫びます。あまりの焦燥感は、情報を咀嚼するには厄介な存在です。100や200という購読数が悪いのではありません。ポリシーなき情報収集は、もはや水で薄めすぎたカルピスのようなもの。ウイスキーでもカルピスでもどっちでもいいわけですが、とかく膨大にありすぎる(それゆえひとつひとつの価値が薄まってしまう)ものというのは、それを処理することにかける労力に対して、重要な意味を持たないんではないかなと思うわけです。

焦燥感に駆られて、情報収集してませんかね。読まないという選択肢があることを暗に否定していませんかね。案外、読むことは読まないことの選択の上に成り立っていたり、するわけです。

 

 

 

 それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。