自分のことを考えるエネルギー効率が非情に悪い ( #ブログ合宿 での記事)

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何かを”考える”時、よくよく”考える”と、”考えよう”としていることを”考えたい”だけで、その実本当に”考えたい”ことを”考えていない”ことがあります。

”考える”ということがもはやゲシュタルト崩壊しそうですが、つまるところ「考えたいことを考える」ということについてゴールはふたつあって、「考えることを考えていたい」か「考えることに結論を出したい」だと思うのです。意味がわかりませんね、考えていきましょう。

 

まず前提にしたいのは自分が何かについて考えたいと思う時、「それを考える時間さえ用意すれば、万事がオッケーということには決してならない」ということです。当たり前な話ですが、何か問題をもっている自分に対してそれを解決したい、それを解決するために自分が投下しなければならないエネルギーというものは相当なものです。多くの人はこの「考えること」に「エネルギーを投下する」ことに慣れていないのです。また「考える」ということがいかにエネルギーを使うかということが、仕事などで日常的に体験するにも関わらず、さて自分のことになるとその尺度が崩れてしまうのです。

 

恐らく「自分のことについて考える」ということが、「どれだけの時間とエネルギーを消費してしまうことか、それを考え、ある結論が出たという経験」が蓄積されていないのでしょう。その蓄積がない限り、それは正確には測れないでしょうし、いざ必要に迫られた時に終わりのない精神消耗戦に突入してしまうのです。

考えることに対して自分がどれほどのエネルギーを使うか、それを把握しきれていない。まずここ、考えることの難しさをはらんでいます。そしてその問題について考えようとしている自分を”演出”することが、考え切れていない自分への不安を払うためのものだとしたら、その場限りでは考えたことの結果なんて出さなくていいのかもしれないのです。

 

その問題について考えていないことが不安なとき、それに対してとる方法はふたつあって「考える時間を作るだけ」か「結論(成果)を出すために考えるか」だと。前者はとくに要注意で「よし、考えよう」ということになったとき、頭をよぎるが「考えたふりをする」といった問題に真摯に対応しているという皮をかぶった逃避行動なのです。うん、嫌々モードに入った頭でこれを回避することは難しい。考える時間を用意するだけで、その問題を考えたことにしてしまう。

 

「どれだけの時間とエネルギーを消費してしまうことか、それを考え、ある結論が出たという経験」を蓄積することが、この問題の解決になりそうなのは確実です。しかしこれには行動と、ある程度の結果を出すということが必要になります。「考えることを考えている自分に安心したい」という状態に自分が陥ってしまったら、そこで用意された「ある問題について考える」という時間はともすれば、何も残さない本当に時間の浪費になってしまうかもしれないのです。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。