読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

”良質なアウトプット”のために、選定するということ

f:id:yukimid:20120716101804j:plain

photo credit: Paul Mayne via photo pin cc

 

最近アウトプットとインプットの関係に頭を悩ませ、そのバランスの悪さにベッドの上からもんどり打って部屋の床に頭を叩きつけたくなるのです。

そもそも私の場合、インプットに対してアウトプットの量が少ないということがあります。

もうちっと書いてもいいんでないのかねと思いつつ、机に積み重なる本の山やEvernoteに放り込まれ続けるあれやこれを、バーボン片手に眺めるのが日課です。

ランプの灯りに照らされ音立つ氷を眺めながら、「ざまあねえぜ」と吐いてみるのです(ハードボイルド)

 

 

 

さて、そのアウトプットについて以下の記事を掘り起こしてみましょう。

  

シゴタノ! 今週のまとめ/余裕がない・時間がないという不満を解消するための朝の習慣

 

 

 

よくよく考えてみると、私も含め「良質のアウトプットを」と考える人は、「アウトプットされるものの形」にこだわりすぎているのではないかなと思います。

つまり、アウトプットされたものを”どんなお皿に盛る”のか、その盛りつけられたものを見た人々が”どう思うか、どういう言葉を漏らすか”に意識を向けすぎていると。

インプットがあって、アウトプットするという過程があるならば、

アウトプットをしたものをどう装飾するかという準備があり、

どんな反応を得るかという結果があります。

後ろふたつに意識を向けすぎると、たちまちそのお皿になにを置くかが形骸化していきます。

極端に言えば、高級なお皿にスパムをそのまま置くようなものです。

(お皿はお皿で美しいですし、スパムはスパムで美味しいですが)

 

数々の反応を得ること(ブログで言えばPV数やSNSでのバズり)は至上命題のように思えますが、それ以前にこちらがお皿に盛り付けるものを考えない限りには、「良質なアウトプット」は額縁に飾られたありがたい言葉以外の何物でもないのです。

 

 

 

 

さて、ご紹介した記事に書かれる”刃を磨く”とはいったいどのようにして成し得るのでしょうか。

この”刃を磨く”ということが、上記した”お皿に何を盛りつけるか”の”何を”の部分の質を高めると思うのです。

私は、以下のように考えます。

 

”あえて文章化しないネタが用意できていること”

 

文章化する(ブログの記事として世に出す)ものを”選ぶ”。

それが”刃を磨く”、このアウトプットの質を上げるための”研ぐ”という行為のひとつなのだと思うのです。

記事を書くという行為に対して、自分のなかで余裕を持つこと。

記事を書くという焦燥感に対して、ネタがひとつという背水の陣から脱すること。

自分がこれから行うアウトプットに対して選ぶ、”選定する”ということが”良質なアウトプット”につながっていくのではないでしょうか。

 

 

 

それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。