旅日記は思い出したい分だけ書けば(描けば・貼れば)いい

旅に出るということ

漠然と「旅に出たい」と考えることがあります。

いつか観たロードムービーのように。

でも旅というのはもっと日常的なものであるとも思っています。

ふらっと出かけるというのも旅なのかと。

だってこの道はあの町に続いている気がしますし。

  

本日、中野にある旅屋( http://tabiya-nkn.ocnk.net/ )にて「旅日記拝見にちようび!」というイベントに招待されましたので、びくびくしながら参加してきました。

この体験はなかなかのものだったので、後々さらに記事を書くかもしれません。ふふふ。

f:id:yukimid:20120115125601j:plain

 

それでさっそくなのですが、わたくし、旅なんぞにいちども出たことがありません。

旅行にいく機会もないですし。

 

< じゃあ、おまえ何枠で参加したんだーい!21世紀枠かーい!

 

もちろんモレスキンに旅先の写真を貼って、「うふふ」ということもありません。

私のモレスキンは常に自分の思考を写し出す鏡であって、そこには旅行のパンフレットやその場で撮られた写真なんぞは貼る余地がなかったのです。

モレスキンは常にシステマティックに自分の手によって記述され、常に自身の思考を受け止めてきました。

モレスキンは思考の体現ですから、そもそもモレスキンを旅日記に使うという発想を持ち得なかったのです。

 

 

ん、旅日記は作品なの?

f:id:yukimid:20120115120724j:plain

 

モレスキンやトラベラーズノート他様々なノートに様々な記録を残している方々が、次々にお話をされていくのを見ながら、ふと考えたのです。 

モレスキン(トラベラーズノートも!)に、明確な意思や決意を持ってペンを持ち、ハサミと糊を持つのでしょうか。

言い方を変えましょう。「それを自分の作品だと意識して旅日記を創作する」のでしょうか。

 

当の本人はそれを作品と思うていなくても、端から見るとその旅日記はオリジナリティに溢れていて、まさにその人を象徴する作品のように見えます。

それはとても素晴らしいことです。

でも「旅日記を作るぞ!」と旅日記を作るために旅に出るという人はなかなかいないのではないでしょうか。
 
 

気負うことはない、旅に出ること、ノートとともに

ここでひとつ話題になるのがモレスキンやトラベラーズノートを使っての旅日記を観るたびに、「自分にはとてもじゃないけど無理」と思ってためらってしまう人が少なからずいる……むしろそういう人が多いのではないかということです。

絵や写真というものは視覚的なインパクトがある分、モレスキンを使いはじめの人たちからすれば、「私にはこんなことできない(´・ω・`)」となってしまうこともままあります。

旅行に行くからちょっと描いてみようかなと思うひとがいたとして、それこそモレスキン本に掲載されている方々のような素敵な旅日記を見てしまって「うぅぅ…無理そう」と感じてしまいます。

石を投げれば当たるような私がそうだったのですから、同じような方はいらっしゃるかと。

 

でも仮に私と旅行に行ったとしたら、あなたは絵を描いて、そこのあなたは写真を撮るかもしれませんが、私はひたすら文字を書きます。

私のモレスキンにはブルーブラックの文字が書き並ぶのです。

旅行先の景色をうまく描きたいと思う人がいるように、私も旅行先の空気をもっと言葉で表現したいと思うのです。 

  

ここまで書いてきて、旅日記は作品ではなくログのひとつという考えが浮かんできました(これはしっくり来るぞ!

ログの残し方は人それぞれです。

私が文字を書くように、その人が残したい方法で記録を残せばいいのです。

そもそもライフログというのは今日飲んだコーヒーを一年後に思い出したくなるかどうか、その可能性を考えて記録を残すか残さないか決めるなんてことではないのです。

一年後に”なんで”"その時に""コーヒーを""飲んだのか"を思い出せることが素敵なのです。

だからこそライフログというものが流行りを迎えたのですが、これというのは旅の記録を残しておきたくなることときっと似ています。

なんの形跡も残さない刹那的な旅というものはそうそう出来ません、何をも残さずに旅をするというのは「ただ西を目指す」ようなひとしか出来ません。

 

ですから、もし旅行に出る機会があったとしてその経験をノートに残したいと思ったら、記録を残す方法に対して気負う必要はまったくありません。

自分に出来る方法で記録し、自分が思い出したい分だけ書けば(描けば)いいのです。 

 
 
 
それでは、どこかの誰かさん。あなたに彩のあるカラフルな日々を。