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慢性的記録過多症候群

雑記

 

手帳というものをこうしてパラパラと眺めていると、それ自体を本格的に使い始めたまさに就職から今に至るまで、実に考え方から使い方までがらりと変わったものだなあと思ってしまします。紙の手帳というものを高校から使い始めて(その時は”手帳の高橋”でした)、フランクリンプランナー、ほぼ日手帳や自作手帳などを経て、今現在はほぼ日カズンを使用しているわけですが、こう紙の手帳というものを日常的に使用していると、自分の情報の管理の仕方に対する傾向というものが見えてきて面白かったりします。

その時期その時期でコントロールすべき状況への対応方法として紙の手帳を持ち出してきたわけですが、その中でも特筆して書き記したいことというのはまさに今のことであったします。

 

現在、仕事におけるスケジュール管理またタスク管理というものはほぼ日カズン、モレスキン、それに付随させる自作の用紙で賄っています。ウェブサービス、デジタルツール他を使用することが出来ない環境ですので、端からそれらを使うという選択肢はありません(たまに”職場で使えないだけであって職場の外に出れば使える”という理論で仕事に使っている人を観ますが、これについては白目にならざるを得ません。余談ではありますが)。

これら紙の手帳を使用して、しかもそれが卓上手帳に分類される大きさのもので、なおかつそれらを使っていて”足りない”などと言い始める自分なのですから、事の重大さというものはさながら寒気がします。この”足りない”とは、紙面の記入スペースが足りないと言っているのか、はたまた手帳を使っていく技量が”足りない”と言っているのかその状況によって異なりますが、大型の手帳を使っていてもなおこうした発言をしてしまうというのは、寒気と書いたように抜本的に何かを直していかなければならないこととも思えます。

”足りない”、どう考えてもそんなわけはないのです。ほぼ日カズンに0.28のボールペンで毎日毎日びっしり書いていってもなお”足りない”。そんなことをしていく意味など、紙という媒体の検索性の低さを考えればないというのもわかっています。細かく書き込んだ情報のほぼすべてのリンクが死んでおり、書き込まれた情報そのものが死蔵しているのですから。

方法が悪いのでしょうか。書き込むべき情報を選別できていない。たしかにそれもあります。ほぼ日カズンというものを仕事に使っていく上で(ほぼ日手帳だけに限らず多くの手帳でも言えることですが)、過程と結果の選別というものをなしに書き込みを行うと、たちまち”落書き帳”になってしまうというのは注意すべき点です。その注意すべき点を踏まえていても、こうした状況に陥ってしまうというのは何なんだろうと。答えは簡単で単なる”不安”なのだと。ここで”単なる”とつけたのは、それ自体が重々しく複雑怪奇過ぎて今自分が抱える不安に詳細に分類することを早々に放棄するためです。

不安というものが紙の手帳への記載量を爆発的に増加させる。紙の手帳が”使いこなせなくて”空欄だらけという悩みを持つ人にしてみれば、「使いこなせていいね」と言われてしまうかもしれませんが、当の本人からしたらこの状況というものは胃に穴が空くほど辛いものです。書いても書いても満足出来ない、その満足というのは不安が和らいだ時に実感できるものだから、不安を和らげるためには書かなければならない。そうしてループに陥るわけです。

バッサリと書くべきものだけを書きなさいと自分に言い聞かせるのですが、それ以上に記録しておくべきと考えることが多く、手帳も足りなければペンも足りずそれを持つ手も腕も、脳みそも足りないと。もはや、手の施しようがありません。

こうは書いてみても何ひとつ解決の糸口が見えてきていない手前、解決というものは全く別の視点からもたらされるものだろうとも薄々勘付いてきていますが、仮にそれを提示されたとして実践できるかどうかもわかりません。ほんとどうしよう、と。

ああ、人はこうして情報に殺されるんだなと、ペンだこの出来た利き手を撫でるわけです。

 

ヘッドクエイクオーバーロード #headquake5

 

 

脳に本を過装填してもいいじゃない。爆発したら、おめでとう。

 

「頭をガツンとやられた5冊の本 #headquake5」

 http://rashita.net/blog/?p=10895

 

 

天の光はすべて星 (ハヤカワ文庫 SF フ 1-4)

天の光はすべて星 (ハヤカワ文庫 SF フ 1-4)

極寒の宇宙というのは想像に難くないわけですが、ここに存在する宇宙は果てしない”あたたかさ”に満ちています。私のSFへの入り口と言っても過言ではありませんし、例えば唐突に「なにかSF読みたいんだけど」と聞かれたとしたら、そのヒトがどのような読書体験をしてきたかを熟考する時間がなく迷ってしまったとき、真っ先に手を挙げてくれる作品です。

 

量子怪盗 (新★ハヤカワ・SF・シリーズ)

量子怪盗 (新★ハヤカワ・SF・シリーズ)

天の光はすべて星が万人に進められるSF(安心感に満ち満ちた作品)だとするならば、この量子怪盗は刺激的でまさにスリリングな作品であり、「なにかSFが読みたいんだけど」と聞かれた時に「ああ、量子怪盗おすすめだよ」と言ってしまうのは畜生の極みだとすら思っています。というのもこの『量子怪盗』は例外なく作者と読者の前提の共有が成されていることがまた前提となる作品で、そしてその作品内速度は恒星間航行を可能にするほどの速度であるからです。ついてこれないよ。

とはいえ読みだしてしまうとハイスピードで、小難しい名前のガジェット満載で楽しいです。 SF版ルパン(+謎の美女) VS シャーロックという構図もわかりやすくて良いですね。

  

コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判

コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判

  • 作者: ヒューバート・L.ドレイファス,Hubert L. Dreyfus,黒崎政男,村若修
  • 出版社/メーカー: 産業図書
  • 発売日: 1992/04
  • メディア: 単行本
  • 購入: 2人 クリック: 36回
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一時期、人工知能であったり、ロボットの心、そもそも心ってなんじゃと考えていた時がありました。そうしたときに本を手にしていくわけですが、なかでもこの『コンピュータには何ができないか』はガツン本でした。技術が達成するのが人工知能という夢ならば、その夢を強固にするのが哲学であり、またそれを鍛える場が哲学的批判ということなのだと。

刊行がちょっと前なので、最新の技術に対する最新の哲学的批判かというと話は違いますが、名著といわれるだけあってその内容は後世に続くものだと思います。私もこの本の内容をすべて理解できるなんてことが今まさに実現できるわけではないので、腰を据えて取り組みたいわけであります。

 

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

神林長平と聞くとちょろっと『戦闘妖精・雪風』と言ってしまいたくなるんですが、私は神林長平と言ったらこの『言壺』です。

小説家そのものが登場しており、さらにその小説家が執筆に執筆支援用マシンを使用しており、そこから生まれるヒトと言語と文章の固く結ばれていた様に思える関係の脆さを描き出しています。”言語”が十分過ぎるほどにSFの一要素になるのだなあとたいそう感動しました。

 

狼の口 ヴォルフスムント 1巻 (BEAM COMIX)

狼の口 ヴォルフスムント 1巻 (BEAM COMIX)

最後にこれをもってきたのはまさに直近で読んでどうしようもなく打ちのめされた作品だからです。最新のガツンですね。

フェローズという時点で”警戒すべき何か”を孕んでることに気がつくべきだったのですが、そこのところよく考えずに読み始め、既刊すべて読み終えた頃には後悔しました。「なんなんだこれは」と。ここまで読んで、この作品を否定的に評していると思われた方はこの作品を読むべきではありません。むしろ、「なんなんだこれは」という言葉が私がこの作品に感じた畏怖という言葉に置き換えるのであれば読むべきです。

そりゃヒトが殺されるという事実を描けば恐ろしいインパクトを生む作品になり得るわけですが、じゃあどういう経緯でヒトが殺されるのかという点を突き詰めていくと、「屈辱に満ちた死」を描くというのが破壊力が在るわけで。なにもこの時代に生まれなくても現代の日常生活でもヒトが嫌悪する「屈辱」というものを前面に押し出して、読者の脳を破壊しにかかる挑戦的な作品です。

屈強な男性の、美麗な女性の首がいともたやすく刎ね飛ばされる様に、文化的な生活を行う自分の中にある禁じられた何かが呼び起こされそうです。条件としては「中世ヨーロッパの時勢」「圧倒的な屈辱」「平等な死」辺りを心構えにして読むと、たいへん楽しめると思います。